安衆侯と舂陵侯

前漢末、王莽の時に反乱を起こして宛県を攻めた安衆侯劉崇。

侯(劉)崇嗣、居攝元年舉兵、為王莽所滅。
侯寵、建武二年以崇從父弟紹封。
建武十三年、侯松嗣。
今見。
(『漢書』巻十五上、王子侯表上、安衆康侯丹)

この安衆侯は後漢最初期に復興されているのだが、これは多分後漢の皇帝の家との「近さ」故なのかな・・・。



王莽に対して反抗したことを称揚するようなものかとも思ったが、同時期の似たような反乱である翟義の反乱の時に立った厳郷侯やその親族たちは復興した形跡が無い。安衆侯が特別扱いなのだと思われる。





後漢皇帝の本家筋である舂陵侯家と、この安衆侯家は、ともに長沙定王劉発の子が「推恩」により封建されたもので、前漢末においてはともに南陽郡に国を置き、断絶せず存続していた家。



つまり血縁的にも距離的にも家格的にも近い関係と言える。詳しく知らないので確証は無いが、ある程度親しい付き合いもあったのかもしれない。



そういった関係性から安衆侯が特別扱いされたんじゃないだろうか。