内政干渉

秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安二十一年)

ふと思ったが、曹操匈奴単于を抑留して右賢王に国を監督させたという件、これは漢王朝において曹操自身がやっていたことを匈奴でもやろうとした、ということなんだな。多分。




匈奴は王族が劉氏を名乗るなど漢王朝に対しては敬意、シンパシーのようなものが見える一方、魏王朝に対してはあまりそうは思えないというのは、こういう独立性を奪い集団間の分断を深めて支配しようとしたから、なのかもな・・・。




漢王朝は単にそれだけの実力差が無かったからかもしれないが、匈奴宗主国のようにはなっても内政にも深く干渉する傾向はあまりなかったようだから、匈奴からすれば魏よりは何倍も良く見えたのではないだろうか。



無論前漢後漢それぞれと曹操の頃とでは匈奴との実力差や置かれた状況があまりに違うが、それでも実際に内政干渉し支配を強めたら、実行者への反発が強いのが当然だろうと思う。