全盛期の文帝伝説

孝成皇帝好詩・書、通覽古今、間習朝廷儀禮、尤善漢家法度故事。常見中壘校尉劉向、以世俗多傳道、孝文皇帝、小生於軍、及長大有識、不知父所在、日祭於代東門外、高帝數夢見一兒祭己、使使至代求之、果得文帝、立為代王。及後徴到、後期、不得立、日為再中。及即位為天子、躬自節儉、集上書囊以為前殿帷、常居明光宮聽政、為皇太薄后持三年服、廬居枕塊如禮、至以發大病、知後子不能行三年之喪、更制三十六日服。治天下致升平、斷獄三百人、粟升一錢。「有此事不?」向對曰「皆不然。」
(応劭『風俗通』正失)


漢の成帝は勤勉で漢の故事とかにも通じていたという。

そこで世間で言われている全盛期の文帝伝説について超物知り劉向さんに尋ねてみた。



成帝「世間では『文帝は軍中で誕生し、成長しても父とはぐれてしまっていた。そこで代の東門外でお祈りしていたら父の高祖が夢に見て代を捜索し、文帝を発見した。そこで文帝を代王に立てた。
 その後、文帝を皇帝に立てるため召還された時、期日に間に合わず即位できないところだったが、太陽が沈まずにまた昇ったために期日に遅れずにすんだ。
 即位後は政治を真面目に行い、母である薄太后が亡くなると三年の喪をやり通したが、そのために病気になってしまった。そこで後の世代にはこのようなことをやらせられないと思い、服喪期間を三十六日に短縮した。
 文帝は天下泰平をもたらし、刑罰は300人、穀物は一升1銭となるほどだった』
・・・と言っているのだが、これは本当かい?」

劉向「全部違います」



なお、上記の本文の後には応劭による検討があり、結果劉向が正しいと言っている。



このやりとりを素直に信じれば前漢末、少々ひねくれて考えてこのエピソード自体が応劭の頃の伝説と思えば後漢末、いずれにしても漢代において文帝の名君伝説は史書に載っている内容を超えて肥大化していたようだ。