羽林

武帝太初元年、初置建章營騎、後更名羽林。以天有羽林之星、故取名焉。又取從軍死事之子孫養羽林官、教以五兵、號曰羽林孤兒。光武中興、以征伐之士勞苦者為之、故曰羽林士。

羽林者、言其為國羽翼、如林盛也。皆冠鶡冠。一名為嚴郎、言其禦侮嚴窅。其後簡取五營高才、別為左・右監。羽林父死子繼、與虎賁同。

(応劭『漢官儀』)

上記の二条は、同じ『漢官儀』の筈だが「羽林」の意味がそれぞれ違っている。応劭自身が両説を挙げていたのか、それとも本来別の文が混入しているのか(『漢官儀』自体は散逸しており、現在目にすることができるのは注釈等の引用で残っているものであるので、書名の誤り等があっても不思議ではない)。


そこを除くと二条とも似たようなことを述べているが、光武帝が従軍者を羽林に取り立てたというのは面白い。


後漢の羽林の士は光武帝の征伐に従軍した栄えある勇士たちの子孫、というスタンスだったのかもしれない。