尚書左右僕射

獻帝建安四年、始置左右僕射、以執金吾營郃*1為左僕射、衛臻為右僕射。
(応劭『漢官儀』)


漢の献帝の建安四年、尚書左僕射・右僕射が置かれた。


この右僕射衛臻は、おそらく『三国志』巻二十二に立伝されている衛臻だろう。

夏侯惇為陳留太守、舉臻計吏、命婦出宴、臻以為「末世之俗、非禮之正」。惇怒、執臻、既而赦之。後為漢黄門侍郎。
東郡朱越謀反、引臻。太祖令曰「孤與卿君同共舉事、加欽令問。始聞越言、固自不信。及得荀令君書、具亮忠誠。」會奉詔命、聘貴人于魏、因表留臻參丞相軍事。追録臻父舊勳、賜爵關内侯、轉為戸曹掾。
(『三国志』巻二十二、衛臻伝)

だが面白いことに彼が漢の尚書右僕射となったことは列伝で完全スルー。


しかし、どうも夏侯惇の計吏になった後から丞相参軍になる前の官が不自然に飛んでいる。


なにしろ、丞相参軍になった時の「聘貴人于魏」とは建安十九から二十年頃にかけての曹貴人(即ち、後に献帝の皇后となる曹操の娘)の嫁入りのことと思われるからだ。
ずっと黄門侍郎だったというのは少々無理がある。



三国志』(および裴注)だけでは、彼のかなりの部分の官歴が不明なのである。


つまり、その間隙に入るのが上記の尚書右僕射なのだろうと思われる。



しかし、なぜ衛臻の官位は消えているのだろうか。

謀反人に名前を挙げられていたことと関係あるのだろうか。
それとも、尚書荀紣の部下に当たることと関係あるのだろうか。
それとも単なるミスとかなのだろうか。

*1:『続漢書』百官志三、尚書僕射の条の劉昭注によれば、「榮邵」という名前とされている。