交阯と朔方

孝武皇帝南平百越、北攘夷狄、置交阯・朔方之州、復徐・梁之地、改雍曰梁、改梁曰益、凡十三州。所以交・朔獨不稱州、明示帝王未必相襲、始開北方、遂交南方、為子孫基阯也。
(応劭『漢官儀』)


「交阯(交趾)」という名の由来について。
もう一つの説についてはこれ(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20101226/1293289573)を参照。


漢の武帝は南越を征服し匈奴を圧すると「交阯」「朔方」の州を置いた。しかし全土を十三州に分ける際にはこの「交阯」「朔方」は含まれていない。

これは、古の帝王も「交阯」「朔方」の地を代々継承しておらず、北方は初めて開かれたばかり(「朔」には「はじめ」という意味がある)であり、やっと南方との交流が始まり、子孫のための基礎とするという意味なのだ、という。


「交阯」について、もう一つの由来とは全く違う由来が載っている。
こっちのほうがスマートなので、個人的にはもう一つの説の方が好みだ。