封禅

初、太和中、中護軍蔣濟上疏曰「宜遵古封禪」。詔曰「聞濟斯言、使吾汗出流足」事寝歴歲、後遂議脩之、使(高堂)隆撰其禮儀。帝聞隆沒、歎息曰「天不欲成吾事、高堂生舍我亡也。」
(『三国志』巻二十五、高堂隆伝)


魏の明帝は中護軍蔣済より「古にならって封禅を行いましょう」と進言された。

当初はその進言に恐れおののいていた明帝*1だが、その後乗り気になったらしく*2儒者の高堂隆に封禅の儀式を決めさせた。

しかし高堂隆がその完成と封禅挙行を待たずに死んだため、明帝は「ああ、天は私の事業の完成を阻んでいる。高堂先生は私を捨てて逝ってしまった」と嘆いたという。



統一前から封禅のことで頭いっぱいな感じの明帝さん、相変わらずブレないっすね。

*1:太和年間といえば即位直後である。

*2:おそらくは諸葛亮撃退以後、心に余裕が出来てからのことなのだろう。