劉敬の対匈奴外交

婁敬曰、臣願爲高車使者持節往至匈奴庭與其分土定界、至曰、汝本處北土之濱、秦亂、汝侵其界、不居中國地。今昏姻已成、當還本牧、還我中國地。汝作丹書鐵券曰、自海以南冠蓋之士處焉、自海以北控弦之士處焉。割土盟子然後還。
(『三輔故事』)

『三輔故事』の文として残る前漢初の婁敬(劉敬)の言葉。

上竟不能遣長公主、而取家人子名為長公主、妻單于。使劉敬往結和親約。
(『史記』巻九十九、劉敬叔孫通列伝)

高祖が匈奴にコテンパンにされた後、劉敬は公主を匈奴の嫁にやるという婚姻政策を進言し取り上げられた。
結局公主については高祖の娘ではなく偽物を立てられたが、その公主を連れて匈奴への使者として北へ向かったのが劉敬であった。

『三輔故事』の文はこの時の外交方針について高祖に語ったものだろう。
「婚姻関係となったんだから、匈奴のみなさんは元の土地に帰ってください。土地も返してもらいますね」って言ってきますよ!ということのようだ。



実際にどうだったのかはわからないが、上記のようなことは『史記』列伝には書かれていない。

正直、あたかも中国側が対等以上であるかのような交渉が出来たのかどうか少々疑問に思う。