元皇帝の処遇

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年)

又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戸萬、地方百里、為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命徳茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中、始建国元年正月)


魏文帝が後漢献帝に一万戸の公国に与え、その国に於いて漢の正朔や祭祀を行わせたというのは、大体が王莽の前漢の後継者孺子嬰に対する措置と同じと言っていい。



魏の措置は直接的には王莽を参考にしたんだろうと思う。まあ、王莽の措置自体が上古の禅譲の形式の中に何か根拠があったんだと思うが。




ただ、王莽が即位当初は王を置いていなかったため「定安公」は皇帝を除けば最も格上の存在と言えたのに対し、魏においては多数の諸侯王を置いていたため、「山陽公」の存在感が少々埋もれた感じはあったんじゃないかとは思うが。


これはもしかしたら、王莽が漢の逆襲に遭ったことを踏まえて、漢の存在感、権威を損なうようにと敢えて行ったことなのかもしれないが。



また晋が魏皇帝を皇帝を除けば最も格上と言える王にしているのは、改めて王莽の時の措置に倣い、魏のやり方は踏襲しなかった、と言えるのかも。つまり魏の措置は評判は悪かったということかもしれない。