反対の理由2

荀彧の反対について考えるといつも思うのだが、数県分の戸数だったとはいえ名目上は県侯だった曹操がいきなり10郡を領土とするというのは数足飛びと言うほか無く、荀彧のように懸念を表するのも無理からぬことではないだろうか。



これだけの領土や戸数を一人で受け取るのは劉邦の時代くらいにしか無いことで、後漢の常識では無かったことだろう。



何しろ王莽も即位以前にはそんな巨大な領土は受け取っていないのである。



私欲全開じゃないか、と取られて当然というものだ。





それでも明確な反対が荀彧くらいしか見られないというのは、当時の曹操とその周辺は後漢王朝の秩序に完全に見切りを付けていて、再建ではなく乗っ取り・奪取をする気満々だった、ということを意味するのだろう。





まあ、この献帝を擁した時の最初の名目を完全に忘れ皇帝への忠誠心をまるで見せない態度は、おそらくは司馬氏が台頭した時に大多数の魏皇帝への忠誠心の欠如という形で返ってきたのではないか、と思えるが。




荀彧は来るべき魏王朝漢王朝のような長期政権にしたいがために、長期的視点から魏公に反対したんだろう、と改めて思う。