呉の太尉

盛彦字翁子、廣陵人也。少有異才。年八歳、詣呉太尉戴昌、昌贈詩以觀之、彦於坐答之、辭甚慷慨。
(『晋書』巻八十八、孝友伝、盛彦)


昨日紹介したママがカブトムシ食べた盛彦の記事の中では、「呉太尉戴昌」なる人物が登場する。


戴若思、廣陵人也、名犯高祖廟諱。祖烈、呉左將軍。父昌、會稽太守。
(『晋書』巻六十九、戴若思)

この人物は晋の戴淵(戴若思)の父のことだと思われる。



どうやら呉で「太尉」が他に確認できないことから、この「呉太尉戴昌」も「太守」などの誤りと考える者もいるらしいが、息子戴淵が滅茶苦茶好き勝手やっていられただけの勢力があったらしいことや、父戴烈が左将軍にまでなったとされていることなどからすれば、戴昌も「太尉」になっていたとしてもそこまで不思議はないのではないか。


呉にその官があったか無かったかについても、はっきりとしたことは何とも言えないだろう。呉末あたりに置かれていたとしても不思議は無い。もちろん確証も無いが。



なお、仮にそうだとしても、呉において「太尉」(通常なら宰相クラスの官)であった人物が、晋では太守にしかなれなかったということになるので、呉の人間が晋において寂しい扱いを受けていたことを示す例になっている、ということになるだろう。