呉の太尉2

昨日の記事で、「呉に太尉がいたんじゃないか、たぶん」みたいな事を書いた。


(寶鼎)三年春二月、以左右御史大夫丁固・孟仁為司徒・司空。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)


それについて、よく考えてみると呉末(孫晧の時)には「司徒」と「司空」がいたことは確実なのである。


後漢・魏の「三公」といえば「司徒」「司空」と「太尉」である。



つまり、上記の孫晧伝は「太尉」の存在を明記はしていないが、普通なら「太尉」を含む「三公」のうち二つまでは存在していたことを示しており、「三公」の残る一つである「太尉」も同時期に誕生していたのではないか、と考えることができる。




昨日の記事の「呉太尉戴昌」が上記の丁固・孟仁(あの孟宗のこと)と同時期の三公かは分からないが、少なくとも孫晧の三公を置いた時期における太尉であった、という可能性が割と高い、ということになるだろう。



昨日の記事によると戴昌は会稽太守だったとされているが、これは「呉」と書かれていないことからすると、呉が征服された後に晋に仕官して会稽太守になった、ということなのではないだろうか。