宗卿師

父(李)守、身長九尺、容貌絶異、為人嚴毅、居家如官廷。初事劉歆、好星歴讖記、為王莽宗卿師
【注】
平帝五年、王莽攝政、郡國置宗師以主宗室、蓋特尊之、故曰宗卿師也。
(『後漢書』列伝第五、李通伝)


後漢初の李通の父李守は「宗卿師」と呼ばれていたが、これは平帝時代の「宗師」から来ていると説明されている。


大司徒保樂卿・典卿・宗卿・秩卿・翼尉・光尉・左隊・前隊・中部・右部、有五郡。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中、天鳳三年五月)

ただ、新になってからの官制に「宗卿」というのが出てきているから、地元ではなく中央にいたらしい李守は、郡国の、かつ前漢の「宗師」ではなく、こちらの「宗卿」関係で「宗卿師」と呼ばれていた(あるいはこの「宗卿」関連で「宗卿師」なる官があった)のではないだろうか?