後漢

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その7

その6(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/24/000100)の続き。

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その6

その5(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/21/000100)の続き。

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/20/000100)の続き。

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/19/000100)の続き。

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/18/000100)の続き。

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/17/000100)の続き。

仲長統『昌言』損益篇を読んでみよう:その1

理乱篇の次は損益篇。

仲長統『昌言』理乱篇を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/14/000100)の続き。

仲長統『昌言』理乱篇を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/13/000100)の続き。

仲長統『昌言』理乱篇を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/12/000100)の続き。

仲長統『昌言』理乱篇を読んでみよう:その2

その1(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/11/000100)の続き。

仲長統『昌言』理乱篇を読んでみよう:その1

唐突だが、後漢末の仲長統の『昌言』を読んでみようと思う。 尚書令荀彧聞(仲長)統名、奇之、舉為尚書郎。後參丞相曹操軍事。毎論説古今及時俗行事、恆發憤歎息。因著論名曰昌言、凡三十四篇、十餘萬言。 獻帝遜位之歲、統卒、時年四十一。 友人東海繆襲常…

禅譲か放伐か

前回の魏公と魏王について。 帝位の禅譲を受けるのは王でなければならない、という決まりは本来は無いはずだ。例えば尭や舜は少なくとも王とは言われていないように思われる。 だが、ここで一つ思った。 殷を放伐により滅ぼした周は、王を名乗っていたではな…

魏王についての疑問

曹操は魏公から魏王になったが、何故魏王になったのだろうか? 魏公の時と領土は変わってないようだし、既に魏公が他の諸侯王より上の地位であると決められている。 じゃあ将来行うであろう禅譲のためかというと、その先達王莽はそもそも王にはなっていない…

陳国の変遷

及獻帝初、義兵起、(劉)寵率衆屯陽夏、自稱輔漢大將軍。國相會稽駱俊素有威恩、時天下飢荒、鄰郡人多歸就之、俊傾資賑贍、並得全活。 後袁術求糧於陳而俊拒絕之、術忿恚、遣客詐殺俊及寵、陳由是破敗。 是時諸國無復租祿、而數見虜奪、并日而食、轉死溝壑…

ひとこと

あれ?後漢末って陳王はあの劉寵が死んだ後に新たに立ってたっけ? 曹操が武平侯だった頃って「陳国」だったんだろうか、それとも「陳郡」だったんだろうか?

漢の前例

九月、太中大夫孔融上書曰・・・(中略)・・・聖漢因循、未之匡改、猶依古法、潁川・南陽・陳留・上黨・三河近郡不封諸侯。・・・(後略)・・・ (『後漢紀』孝献帝紀巻第二十九、建安九年) 孔融の上書によれば、潁川・南陽・陳留・上党・三河(河内・河…

戸数の変遷

(建安元年)九月、車駕出轘轅而東、以太祖為大將軍、封武平侯。 (『三国志』巻一、武帝紀) (建安十年正月)丁丑、增封(曹)操萬三千戸、平幽・冀之功也。 (『後漢紀』孝献帝紀巻第二十九) (建安十一年正月)己丑、增封(曹)操、并前三萬戸、食柘城…

大敗の責任

魏武故事載公(建安十五年)十二月己亥令曰・・・(中略)・・・今上還陽夏・柘・苦三縣戸二萬、但食武平萬戸、且以分損謗議、少減孤之責也。 (『三国志』巻一、武帝紀注引『魏武故事』) 曹操は建安11年に(おそらく高幹撃破の功績との名目で)三万戸に…

陳平の封建

高帝南過曲逆 、上其城、望見其屋室甚大、曰「壯哉縣!吾行天下、獨見洛陽與是耳。」顧問御史曰「 曲逆戸口幾何?」對曰「始秦時三萬餘戸、閒者兵數起、多亡匿、今見五千戸。」於是乃詔御史、更以陳平為曲逆侯、盡食之、除前所食戸牖。 (『史記』巻五十六、…

劉備に属した県侯

二十五年、魏文帝稱尊號、改年曰黄初。 或傳聞漢帝見害、先主乃發喪制服、追諡曰孝愍皇帝。 是後在所並言衆瑞、日月相屬、故議郎陽泉侯劉豹・青衣侯向舉・偏將軍張裔・黄權・大司馬屬殷純・益州別駕從事趙莋・治中從事楊洪・從事祭酒何宗・議曹從事杜瓊・勸…

陳王・受け継がれる想い

かの後漢末の陳王劉寵は、黄巾の乱の時に「彊弩數千張」を所持していたという。 しかし陳国は数代前の思王鈞の時にやらかして領土を削られ、劉寵自身も皇帝の呪詛容疑で捕まったりしている。 弩数千を揃える費用はどこから出てきたのだろうか? それだけの軍…

芸は身を助ける

包咸字子良、會稽曲阿人也。少為諸生、受業長安、師事博士右師細君、習魯詩・論語。 王莽末、去歸郷里、於東海界為赤眉賊所得、遂見拘執。十餘日、咸晨夜誦經自若、賊異而遣之。 (『後漢書』列伝第六十九下、儒林列伝、包咸) 前漢末から後漢初にかけての儒…

樊城の過去

樊宏字靡卿、南陽湖陽人也、世祖之舅。 其先周仲山甫、封于樊、因而氏焉、為郷里著姓。 (『後漢書』列伝第二十二、樊宏伝) 城北枕沔水、即襄陽縣之故城也。・・・(中略)・・・東對樊城。樊、仲山甫所封也。 (『水経注』沔水) 襄陽と川を挟んで向かいに…

劉保

孝順皇帝諱保、安帝之子也。 (『後漢書』紀第六、孝順皇帝紀) 皇女保、延平元年封脩武長公主。 (『後漢書』紀第十下、皇后紀下、和帝四女) 後漢皇帝の和帝の子である修武長公主は劉保。 後漢の皇帝順帝は劉保。 全くの同時代ではなく、公主劉保は順帝劉…

北郷侯

明年三月、安帝崩、北郷侯立、濟陰王以廢黜、不得上殿親臨梓宮、悲號不食、内外羣僚莫不哀之。及北郷侯薨、車騎將軍閻顯及江京、與中常侍劉安・陳達等白太后、祕不發喪、而更徴立諸國王子、乃閉宮門、屯兵自守。 (『後漢書』紀第六、順帝紀) 後漢安帝の後…

先祖の系図

孔昱字元世、魯國魯人也。 七世祖霸、成帝時歴九卿、封襃成侯。 自霸至昱、爵位相係、其卿相牧守五十三人、列侯七人。 昱少習家學、大將軍梁冀辟、不應。太尉舉方正、對策不合、乃辭病去。後遭黨事禁錮。靈帝即位、公車徴拝議郎、補洛陽令、以師喪弃官、卒於…

丹楊募兵

頃之、大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵、先主與倶行、至下邳遇賊、力戰有功、除為下密丞。復去官。 (『三国志』巻三十二、先主伝) 劉備は大将軍何進の命令で丹楊(丹陽)郡へ行き募兵をしたというが、それに同行した「都尉毌丘毅」はどういう立場だった…

ひとこと

「糟糠の妻」の宋弘は字「仲子」。 後漢末の南陽の人で劉表の元にいた学者宋忠は字「仲子」。 どっちも「宋仲子」なのか。

宋弘の妻その2

昨日の記事の主役、宋弘。 この人物は「糟糠の妻」の話で有名な人物でもある。 宋弘は主君である皇帝から、今の妻から皇帝の姉に乗り換えてはどうか、というMNPの誘いを「貧しい時を共にした妻を捨てるなんてとんでもない」と言って断った。 ところで、こ…