曹操と琅邪王

(劉)據立四十七年薨、子順王容嗣。
初平元年、遣弟邈至長安奉章貢獻、帝以邈為九江太守、封陽都侯。
容立八年薨、國絶。
初、邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。
建安十一年、復立容子熙為王。在位十一年、坐謀欲過江、被誅、國除。
(『後漢書』列伝第三十二、琅邪孝王京伝)


なんでも、初平元年当時の琅邪王は弟を派遣して献帝に貢物を献上した、という。



貢物は本来定期的に行うものだったらしいが、この初平元年といえばあの関東の太守たちが董卓に対し一斉蜂起した年であるから、殆どの王は貢物どころじゃなかったのだろう。琅邪王だけが真面目に貢献した、ということなのだろう。



その際に長安の朝廷へ行った琅邪王の弟劉邈は東郡太守曹操の忠誠心を献帝に対して褒めたたえたのだという。



初平元年時点では曹操はまだ東郡太守ではないが、まあこれは長安に着いた頃には2年以降になっていて東郡太守になっていたということかもしれない。




それよりも、おそらくはまだ曹操献帝を擁し朝廷を牛耳る董卓に歯向かっていた時期だと思われるのに、この劉邈は朝廷で曹操を褒めたたえていた、ということが気になる。



あと、それまでの経歴で曹操が劉邈個人または琅邪王と懇意になったか、または曹操の忠誠心を知るような機会があったのかがよく分からない。




董卓のいる朝廷で反董卓の一員のはずの曹操を称賛したのだとすれば劉邈は中々に大胆である。



それとも、曹操はその時点で既に朝廷すなわち董卓に対する態度を軟化させていたのだろうか?