2014-08-01から1ヶ月間の記事一覧

『潜夫論』を読んでみよう−救辺篇その1

三国志の時代の幕開けとも言える、袁紹らによる宦官の皆殺し。 これを袁紹に語った、言い換えれば入れ知恵した人物として、涼州出身の蓋勲という人物がいたことは既に述べた。 また、それに続いて起こった大事件が涼州出身の董卓による皇帝廃立であり、反董…

20周年

http://www.wani.com/13877/ 快楽天すげえなあ、20周年なのか・・・。 それにしてもいつも表紙の「快楽天」は隠されてるな。 もうそのタイトル要らないんじゃね?

涼州人が殺し合う悲劇

典略曰、(馬)騰字壽成、馬援後也。桓帝時、其父字子碩、嘗為天水蘭干尉。後失官、因留隴西、與羌錯居。家貧無妻、遂娶羌女、生騰。騰少貧無産業、常從彰山中斫材木、負販詣城市、以自供給。騰為人長八尺餘、身體洪大、面鼻雄異、而性賢厚、人多敬之。 (『…

涼州放棄論

永初四年、羌胡反亂、殘破并・涼、大將軍訒騭以軍役方費、事不相贍、欲弃涼州、并力北邊、乃會公卿集議。騭曰「譬若衣敗、壞一以相補、猶有所完。若不如此、將兩無所保。」議者咸同。 (虞)詡聞之、乃説李脩曰「竊聞公卿定策當弃涼州、求之愚心、未見其便。…

後漢涼州の強制避難区域

(永初四年三月)先零羌寇襃中、漢中太守鄭勤戰歿。徙金城郡都襄武。 ・・・(中略)・・・ (永初五年)三月、詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地徙池陽、上郡徙衙。 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀) 後漢中期ごろ、安帝の永初4年(西暦110年)、翌5年に…

ひとこと

後漢末、建安年間頃の涼州の金城太守って、曹操が張魯を破った後の蘇則より前の人物が見つからない気がするなあ。 俺が気付かなかっただけかもしれないけど。 それらしい記事を見つけていない以上は憶測でしかないが、それまではもしかしたら韓遂あたりが金…

河西四郡をめぐる綱引き

以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140324/1395590256)で、後漢末に張猛という武威太守が反乱を起こして刺史を殺害していたことを紹介した。 至十五年、將軍韓遂自上討猛、(張)猛發兵遣軍東拒。其吏民畏遂、乃反共攻猛。初奐為武威太守時、猛方在…

小休止

今日は出先なので記事はお休みなのでふ。

項羽は何故37564にしたのか

到新安。諸侯吏卒異時故繇使屯戍過秦中、秦中吏卒遇之多無状、及秦軍降諸侯、諸侯吏卒乘勝多奴虜使之、輕折辱秦吏卒。秦吏卒多竊言曰「章將軍等詐吾屬降諸侯、今能入關破秦、大善、即不能、諸侯虜吾屬而東、秦必盡誅吾父母妻子。」諸侯微聞其計、以告項羽。…

謎の一番手

後漢の皇帝、霊帝。 皇后が産んだ長子の劉弁は17歳まで諸侯王にはなっておらず、霊帝が死去すると結局まず彼が皇帝に即位した。 皇后の実子であるから、普通に考えれば彼が後継者一番手と認識されていたのは間違いないだろう。 また、魏公(魏王)曹操の長…

ドライ孟達とピエロ皇帝

蜀丞相諸葛亮將北伐、招(孟)達為外援、故貽書曰「嗟乎、孟子度!邇者、劉封侵凌足下、以傷先帝待士之望。慨然永嘆!毎存足下平素之志、豈虚託名載策者哉!」都護李嚴亦與書曰「吾與孔明、並受遺詔、思得良伴。」呉王孫權亦招之。達遂背魏、通呉・蜀。表請…

ひとこと

今年はプロ野球を見るときに精神的に安定しているなあ・・・(諦め)

郡国の改易

郡國縣邑、多所改易。 (『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年) 分界郡國所屬、罷置改易、天下多事、吏不能紀。 (『漢書』巻十二、平帝紀、元始四年) 上は曹丕の時、下は王莽の時。 それぞれ各地の郡や県などの境界や名称などの変更が多かった、と述べている…

邑主

舊典、諸王女皆封郷主、乃獨封(劉)蒼五女為縣公主。 (『後漢書』列伝第三十二、東平憲王蒼伝) 漢代の制度では、諸侯王の娘は「郷主」とされるものであったらしい。 皇帝の娘は「公主」である。 で、皇帝の宗室ではあるが皇帝の娘でも諸侯王の娘でもない…

どうでもいいですが

江子一字元貞、濟陽考城人、晉散騎常侍統之七世孫也。 ・・・(中略)・・・ 弟子四、歴尚書金部郎、大同初、遷右丞。 (『梁書』巻四十三、江子一伝) 南北朝の時代の士大夫でも、「子一」「子四」といった命名をする例もあったんだなあ。 流石に当時として…

魏呉の任子についてちょっと考えてみた

@Golden_hamster 人質を取られる事自体が嫌っていう前提はあるとしても、そういう法律があったから、孫権は絶対に孫登を差し出さなかった側面もあるんですかね。— 六合 (@Rieg__Goh) 2014, 8月 15 このツイートあたりからちょっと考えてみたこと。

施但の反乱

(朱)然別攻破備前鋒、斷其後道、(劉)備遂破走。拜征北將軍、封永安侯。 (『三国志』巻五十六、朱然伝) 呉の朱然は永安侯に封じられた。 そして、その子の朱績は後に施氏に改姓した。つまり、施績と名乗るようになったということである。 冬十月、永安…

任子の末路

魏略曰、始(公孫)淵兄晃為恭任子、在洛、聞淵劫奪恭位、謂淵終不可保、數自表聞、欲令國家討淵。帝以淵已秉權、故因而撫之。及淵叛、遂以國法繫晃。晃雖有前言、冀不坐、然内以骨肉、知淵破則己從及。淵首到、晃自審必死、與其子相對啼哭。時上亦欲活之、…

ひとこと

昨日の記事からふと思ったことなんだが、曹操は曹沖を十三歳になる以前からやたら高く評価して後継者にまで考えた、ということになるんだよなあ。 すでにそこそこの年齢に達した曹丕を差し置いて。 まあ、それくらい優秀なところを見せていたということなん…

曹操が愛してくれた周不疑は死んだ!何故だ?―坊やだからさ

(劉)先甥同郡周不疑、字元直、零陵人。先賢傳稱不疑幼有異才、聰明敏達、太祖欲以女妻之、不疑不敢當。太祖愛子倉舒、夙有才智、謂可與不疑為儔。及倉舒卒、太祖心忌不疑、欲除之。文帝諫以為不可、太祖曰「此人非汝所能駕御也。」乃遣刺客殺之。 (『三国…

尚父

董卓賓客部曲議欲尊卓比太公、稱尚父。卓謀之於(蔡)邕、邕曰「太公輔周、受命翦商、故特為其號。今明公威徳、誠為巍巍、然比之尚父、愚意以為未可。宜須關東平定、車駕還反舊京、然後議之。」卓從其言。 (『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝) 董卓の賓客や…

登録抹消

江表傳曰、曹休出洞口、呂範率軍禦之。時(孫)匡為定武中郎將、違範令放火、燒損茅芒、以乏軍用、範即啓送匡還呉。(孫)權別其族為丁氏、禁固終身。 臣松之案本傳曰「匡未試用卒、時年二十餘。」而江表傳云呂範在洞口、匡為定武中郎將。既為定武、非為未試…

察戦

是歳使察戰到交阯調孔爵・大豬。 (永安)六年夏四月、泉陵言黄龍見。五月、交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝先是科郡上手工千餘人送建業、而察戰至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也。 (『三国志』巻四十八、孫休伝) 孫晧時*1、交阯太守孫諝貪…

頑固爺

(孫登)立凡二十一年、年三十三卒。臨終、上疏曰・・・(中略)・・・張休・顧譚・謝景、皆通敏有識斷、入宜委腹心、出可為爪牙。・・・(後略)・・・。 謝景時為豫章太守、不勝哀情、棄官奔赴、拜表自劾。(孫)權曰「君與太子從事、異於他吏。」使中使慰…

ひとこと

昨日みたいなことがあると、逆にちょっと面白くなってくるよね。 まあいいよ、観戦時は観客少ない方が快適だし(皮肉)

郡公と二千石

(王)浚字彭祖。母趙氏婦、良家女也、貧賤、出入(王)沈家、遂生浚、沈初不齒之。 年十五、沈薨、無子、親戚共立浚為嗣、拜駙馬都尉。太康初、與諸王侯俱就國。三年來朝、除員外散 騎侍郎。元康初、轉員外常侍、遷越騎校尉・右軍將軍。出補河内太守、以郡…

吉本は吉本ではないかもしれない

二十三年春正月、漢太醫令吉本與少府耿紀・司直韋晃等反、攻許、燒丞相長史王必營、必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。 (『三国志』巻一、武帝紀) いわゆる後漢末の「吉本の乱」。だが吉本は吉本じゃなかったかもしれない。

不十

昨日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140803/1406992263)についてだが、コメント欄にてid:gureneko氏から、またツイッターにて複数の方から、「不」+「十」(㔻)のように書く字体の存在をご指摘をいただいた。 この場を借りて私の不備を補っていただ…

初、魏文帝即位、(孫)權嘗從容問羣臣曰「曹丕以盛年即位、恐孤不能及之、諸卿以為如何?」羣臣未對、(闞)澤曰「不及十年、丕其沒矣、大王勿憂也。」權曰「何以知之?」澤曰「以字言之、不十為丕、此其數也。」文帝果七年而崩。 (『三国志』巻五十三、闞…

出入

(王)浚字彭祖。母趙氏婦、良家女也、貧賤、出入(王)沈家、遂生浚、沈初不齒之。年十五、沈 薨、無子、親戚共立浚為嗣、拜駙馬都尉。 (『晋書』巻三十九、王沈伝) 魏末から晋にかけての人物、王沈*1。 彼の跡を継いだ息子王浚の母趙氏は、貧しさから王…