郡公と二千石

(王)浚字彭祖。母趙氏婦、良家女也、貧賤、出入(王)沈家、遂生浚、沈初不齒之。
年十五、沈薨、無子、親戚共立浚為嗣、拜駙馬都尉。太康初、與諸王侯俱就國。三年來朝、除員外散 騎侍郎。元康初、轉員外常侍、遷越騎校尉・右軍將軍。出補河内太守、以郡公不得為二千石、轉東中郎將、鎮許昌
(『晋書』巻三十九、王浚伝)

晋代、王沈の子の王浚は父の爵位を継ぐ形で(父は郡公を固辞し続けていたが)郡公となった。



その後、官界に位を得た王浚は一度は河内太守に任命されたが、「郡公は二千石(=太守)にはなってなはいけない」ということを理由に東中郎将に配置換えされたという。




他の同格の官位は問題ないが郡の長官だけダメということっぽい。




この時代では既に昔からの慣習でしているだけになっているのかもしれないが、おそらく発想としては「自分の領土とは別の土地も支配する」というのが何かひっかかったのではなかろうか。