河西四郡をめぐる綱引き

以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140324/1395590256)で、後漢末に張猛という武威太守が反乱を起こして刺史を殺害していたことを紹介した。



至十五年、將軍韓遂自上討猛、(張)猛發兵遣軍東拒。其吏民畏遂、乃反共攻猛。初奐為武威太守時、猛方在孕。母夢帯奐印綬、登樓而歌、旦以告奐。奐訊占夢者曰「夫人方生男、後當復臨此郡、其必死官乎!」及猛被攻、自知必死曰「使死者無知則已矣、若有知、豈使吾頭東過華陰歷先君之墓乎?」乃登樓自燒而死。
(『三国志』巻十八、龐淯伝注引『典略』)

建安十五年、張猛を討ったのはあの韓遂であった。




韓遂といえば反覆常なき梟雄と言うヤツで、馬超と組んで曹操と戦うのは翌年のことになる。




だが、その馬超の乱にしても発端は馬超ら関中の諸将が曹操鍾繇らの動きに疑念を感じたこととされており、それが起こるより以前である今回の件では、韓遂曹操さんサイドの意向に反して軍を動かしたとするだけの理由はないのではないか。




つまり、韓遂曹操さんサイドの命令か黙認があって軍を動かしたのだろう。





直接の命令者は涼州刺史韋康なのか、それとも曹操から直接出された格好なのかは気になるところだ。






これは推測というより妄想に近いものになってしまうが、曹操からの命令であれば、河西四郡=「雍州」の反乱者を討伐した時点で新たな雍州刺史を送り込んで支配を再開しようとしても良いわけだ。



このあといったんは河西四郡=「雍州」の支配強化を諦めたのだとすれば、それ以前の河西を統括していた涼州刺史韋康の方が独自に韓遂を動かして河西を反乱者から奪い返し、同時に河西を「雍州」からも回復した、ということになるのではなかろうか。