ドライ孟達とピエロ皇帝

蜀丞相諸葛亮將北伐、招(孟)達為外援、故貽書曰「嗟乎、孟子度!邇者、劉封侵凌足下、以傷先帝待士之望。慨然永嘆!毎存足下平素之志、豈虚託名載策者哉!」都護李嚴亦與書曰「吾與孔明、並受遺詔、思得良伴。」呉王孫權亦招之。達遂背魏、通呉・蜀。表請馬・弩於文帝、撫軍司馬宣王以為不可許。帝曰「吾為天下主、義不先負人。當使呉・蜀知吾心。」乃多與之、過其所求。明帝太和初、達叛魏歸蜀。
(『華陽国志』巻二、漢中志)

(孟)達既為文帝所寵、又與桓階・夏侯尚親善、及文帝崩、時桓・尚皆卒、達自以羈旅久在疆埸、心不自安。諸葛亮聞之、陰欲誘達、數書招之、達與相報答。
(『三国志』巻三、明帝紀注引『魏略』)


かの孟達劉備の元を離れて曹丕に降り、更に諸葛亮に呼応しようとして司馬懿に討たれたという件については、二番目に引用した『魏略』が言うように「孟達は友人や曹丕が死んでしまって孤立したことで反乱の誘いに乗った」と理解されるのが多分普通なのだろう。






だが、最初に引用した『華陽国志』では様相が割と違っていた。



そちらによれば、孟達は文帝が生きている頃から諸葛亮李厳、更には孫権から誘いをかけられており*1、しかも孟達もそれに乗っていたというのだ。



その上、文帝曹丕に対して「馬や武器(弩)を増やしてほしい」とお願いをしており、司馬懿が反対したにもかかわらず「俺が先に背くことはできない」とキメ台詞を言って要求以上に増やしてやったという。




だが孟達は案の定反乱し、曹丕が与えた馬と武器も反乱の道具になったのであったチャンチャン、というオチになっている。






結論。『華陽国志』では孟達スーパードライ曹丕がピエロ。





*1:三国志』とその注では孫権も誘っていたことは書かれていないっぽい。