皇后が産んだ長子の劉弁は17歳まで諸侯王にはなっておらず、霊帝が死去すると結局まず彼が皇帝に即位した。
皇后の実子であるから、普通に考えれば彼が後継者一番手と認識されていたのは間違いないだろう。
彼は他の兄弟たちが列侯などになる中にあっても爵位を貰っていない。
これも、彼が後継者一番手と認識されていたからと思われる。
彼は実の息子を諸侯王に立てているわけだが、上記の例からするとその子たちは後継者一番手ではなかったということになる。
いったい、曹叡の「後継者一番手」は誰だったのだろうか。
記録に一切残らないが後継者候補とされていた実子がいたのだろうか。
ようわからん。