涼州人が殺し合う悲劇

典略曰、(馬)騰字壽成、馬援後也。桓帝時、其父字子碩、嘗為天水蘭干尉。後失官、因留隴西、與羌錯居。家貧無妻、遂娶羌女、生騰。騰少貧無産業、常從彰山中斫材木、負販詣城市、以自供給。騰為人長八尺餘、身體洪大、面鼻雄異、而性賢厚、人多敬之。
(『三国志』巻三十六、馬超伝注引『典略』)

ふと思ったんだが、馬超涼州でいったんは降伏を受け入れた韋康を殺すなどの凶行に走っていた裏には、彼の出自のこういった事情があったりしないかなあ。





羌との雑居で生まれたハーフ馬騰は、涼州におけるカーストのわりと下の方だったんじゃないだろうか。


少なくとも『典略』からはそんな風に感じる。




おそらくは涼州におけるカースト的にはもともと割と上位だったはずの韓遂(親は年配になってからとはいえ孝廉経験者)であるとか、刺史の高級幕僚を務めた楊阜などであるとかといった連中とはまるで話が合わず、それどころか差別的な取扱いを受けていたかもしれない。



馬超もそれを見て育っただろうし、本人も同じような扱いに憤慨したことがあったかもしれない。





怨みに思った、までではないにしろ、そんな「涼州カースト」が争いと悲劇を生んだ・・・なんてことかもしれないなあ。