頑固爺

(孫登)立凡二十一年、年三十三卒。臨終、上疏曰・・・(中略)・・・張休・顧譚・謝景、皆通敏有識斷、入宜委腹心、出可為爪牙。・・・(後略)・・・。
謝景時為豫章太守、不勝哀情、棄官奔赴、拜表自劾。(孫)權曰「君與太子從事、異於他吏。」使中使慰勞、聽復本職、發遣還郡。
(『三国志』巻五十九、孫登伝)

(張)承為人壯毅忠讜、能甄識人物、拔彭城蔡款・南陽謝景於孤微童幼、後並為國士、款至衞尉、景豫章太守。
(『三国志』巻五十二、張承伝)


三国時代の呉に南陽郡出身の謝景という人物がいた。



彼はどうやら低い身分の出であったようだが張承に抜擢され、皇太子孫登の側近となっていたらしい。




そんな彼だが、あるとき呉の超大物からおしかりを受けたことがあったそうな。




南陽謝景善劉廙先刑後禮之論、(陸)遜呵景曰「禮之長於刑久矣、廙以細辯而詭先聖之教、皆非也。君今侍東宮、宜遵仁義以彰徳音、若彼之談、不須講也。」
(『三国志』巻五十八、陸遜伝)


謝景は同じ南陽の劉廙(司馬徽門下)の「刑を先にして礼を後にする」論を信奉していると知り、陸遜さんは彼を叱り飛ばした。



「礼が刑より先であることはずっと昔からのことであるぞ!劉廙のヤツはせせこましい浅知恵で偉大な聖人たちの教えを非難しているが、全て間違っている!君は太子の側近なのだから、仁と義を守り徳行を顕彰しなければならない。劉廙の論などは太子へ講義してはいかんぞ!」




劉廙は司馬徽に褒められ、魏では割と評判が良かったらしく、曹丕も信奉したようである。


たぶん、呉でもそこそこ有名で、同郷である謝景は呉における彼の論の第一人者だったのだろう。






そういったものをマジ顔で徹底的に排撃する陸遜さんからは、ちょっと都会とか当時の先進的な思想へのコンプレックスみたいなものを感じないでもない。



本人は真面目で純粋に国を憂いての行動なのは間違いないだろうが、窮屈そうなのは否めないかな・・・。