尚父

董卓賓客部曲議欲尊卓比太公、稱尚父。卓謀之於(蔡)邕、邕曰「太公輔周、受命翦商、故特為其號。今明公威徳、誠為巍巍、然比之尚父、愚意以為未可。宜須關東平定、車駕還反舊京、然後議之。」卓從其言。
(『後漢書』列伝第五十下、蔡邕伝)

董卓の賓客や部下は董卓をかの太公望に比肩する存在へと引き上げ、董卓太公望と同じ「尚父」の号を与えることを目論んだ。




それについて董卓が蔡邕に諮ったところ、彼はこう答えた。



太公望は周を助け、天命に従って殷を討ったため、特に「尚父」と号したのです。今、貴方の武威や人徳は大変大きなものではありますが、「尚父」の太公望と比べてみると、私には釣り合うものには思えず、まだその時期ではないと考えます。関東を平定し、皇帝陛下を長安から洛陽へと戻らせることができて初めて、そのことを議論すべきでしょう」





なんとなくイメージしてた感じからすると、ここで素直に従う董卓というのも新鮮だが、この部分で注目すべきは、「最終的に「尚父」になることは否定されていない」ということだろう。



実際に関東の反乱者たち(袁紹曹操などの関東の諸将)を平定し皇帝を再度洛陽に戻すことがあれば、蔡邕の発言は逆に言質となり、董卓がそれなりに信頼し当代でも有名な蔡邕も認めたとあっては、もはや阻む者はいないことになる。





本質的には蔡邕は董卓が「尚父」という漢代では無かった地位につくことを否定していないのである。





もちろん、これは禅譲そのものではない*1ので、ダメ絶対と言えることではなかったということかもしれないし、真っ向から反対したら首だけで夢を見ることになったかもしれないということかもしれない。







あと、荀紣もこういう言い方していたら少なくとも「始末」まではされなかったのかもなあ、なんて思ったり思わなかったり。

いやまあ無理だろうけど。





*1:とはいえ、王莽が自分を周公旦になぞらえたのに対して太公望になぞらえるというのは意味深である。