施但の反乱

(朱)然別攻破備前鋒、斷其後道、(劉)備遂破走。拜征北將軍、封永安侯。
(『三国志』巻五十六、朱然伝)


呉の朱然は永安侯に封じられた。



そして、その子の朱績は後に氏に改姓した。つまり、施績と名乗るようになったということである。



冬十月、永安山賊施但等聚衆數千人、劫(孫)晧庶弟永安侯謙出烏程、取孫和陵上鼓吹曲蓋。比至建業、衆萬餘人。丁固・諸葛靚逆之於牛屯、大戰、但等敗走。獲謙、謙自殺。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝)


孫晧の時代、永安の施但なる人物が数千人もの人を集め、孫晧の弟で永安侯に封じらていた孫謙を力づくで従わせた。


これはつまり反乱であり、孫晧から孫謙に皇帝を変えてしまおうという政変とも言えるだろう。




で、これを率いたのが永安の賊「但」・・・。





この時期はまだ施績は生きていた(左大司馬)のだが、かつて朱然が封じられたことがある永安*1において施氏を名乗って反乱を起こした者と施績との関係は取り沙汰されたりはしないで済んだのだろうか。

*1:永安がどこにあるのかまだ確認できていないのだが、烏程から近いらしいことからすると、そもそも朱然の朱氏らの出身県からも近いところにあるのではなかろうか。というか永安は朱然らの出身地を改名したものであるかもしれない。