吉本は吉本ではないかもしれない

二十三年春正月、漢太醫令吉本與少府耿紀・司直韋晃等反、攻許、燒丞相長史王必營、必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

いわゆる後漢末の「吉本の乱」。だが吉本は吉本じゃなかったかもしれない。





(耿)紀以(曹)操將簒漢、建安二十三年、與大醫令吉㔻、丞相司直韋晃謀起兵誅操、不克、夷三族。
【注】
「㔻」或作「平」。
(『後漢書』列伝第九、耿秉伝)

あっ・・・昨日までの記事に出てきた「㔻」(「不」+「十」)が使われている・・・。




つまり「吉本」は『後漢書』で「吉㔻」と書かれている部分があったわけで、それはつまり「吉丕」ということになる。





しかも、注で「平」とするテキストもあったと言っている。



つまり少なくとも唐初の段階で、「吉本」でも「吉丕」(吉㔻)でもなく、「吉平」と書いていた書もあったわけだ。






帝知國舅染病、令隨朝太醫前去醫治。此醫乃洛陽人、姓吉、名太、字稱平、人皆呼為吉平、當時名醫也。
(『三国演義』第二十三回)

ところで、『三国演義』において太医吉平という登場人物がいる。



この人物が「吉本」をモデルとしているのは明らかであるが、なぜわざわざ本名は「吉太」という設定があるのだろうか。





思うに、この「吉太」は「吉本」あるいは「吉丕」(吉㔻)と字形が似ているのではないか。



つまり、「「㔻」或作「平」」という『後漢書』注の「㔻」が「太」と伝写等の過程で伝わった上で、「「吉太」は「吉平」とも言った」と解釈し、「吉太」の別名が「吉平」なのだ、という設定になったということなのではないか、と思う。






「吉本」は「吉㔻」であり「吉丕」であり「吉平」であり「吉太」である、ということになる。



どれが本来の字であったのかは・・・もうわかんねえな。