任子の末路

魏略曰、始(公孫)淵兄晃為恭任子、在洛、聞淵劫奪恭位、謂淵終不可保、數自表聞、欲令國家討淵。帝以淵已秉權、故因而撫之。及淵叛、遂以國法繫晃。晃雖有前言、冀不坐、然内以骨肉、知淵破則己從及。淵首到、晃自審必死、與其子相對啼哭。時上亦欲活之、而有司以為不可、遂殺之。
(『三国志』巻八、公孫淵伝注引『魏略』)

以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140630/1404054329)で、魏で外郡・劇郡の太守から任子(人質)を取っていたことを述べた。



では反乱などとなった時にその任子がどうなるか、予想はつくことだが実例があった。





公孫淵の兄の公孫晃は、公孫氏の先代公孫恭の任子となっていた。



だが弟の公孫淵が叔父公孫恭より地位を奪い取ったと知ると、公孫淵では国を保てないと思い、魏に討伐を願い出るのだった。




だがそれは受け入れられずに時が過ぎ、公孫淵は呉と結んで魏に刃向う。




そこで公孫晃は拘束されることとなり、かつての経緯から明帝は救いたかったようだが、魏の法では反乱を起こせば任子は処刑と決まっていたらしく、公孫晃も処刑されてしまった。






まあ、当然と言えば当然なのだろうが、任子はまさしく子弟の命を担保とした保証制度ということのようだ。