後漢涼州の強制避難区域

(永初四年三月)先零羌寇襃中、漢中太守鄭勤戰歿。徙金城郡都襄武。
・・・(中略)・・・
(永初五年)三月、詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地徙池陽、上郡徙衙。
(『後漢書』紀第五、孝安帝紀



後漢中期ごろ、安帝の永初4年(西暦110年)、翌5年に、羌の攻撃を受けた涼州方面の各郡を近隣の他県に避難させるということがあった。





羌既轉盛、而二千石・令・長多内郡人、並無守戰意、皆爭上徙郡縣以避寇難。朝廷從之、遂移隴西徙襄武、安定徙美陽、北地徙池陽、上郡徙衙。百姓戀土、不樂去舊、遂乃刈其禾稼、發徹室屋、夷營壁、破積聚。時連旱蝗飢荒、而驅䠞劫略、流離分散、隨道死亡、或弃捐老弱、或為人僕妾、喪其太半。
(『後漢書』列伝第七十七、西羌伝)

この避難の実態について、『後漢書』西羌伝ではこのように証言している。




そもそもこの避難は、戦って守ろうという気概のない内地出身の郡や県の長官たちが考えたものであった。



主に彼ら長吏たちの厭戦気分と惰弱さゆえの策であった、というのである。




そして実際には現地の民には土地を離れたがらない者も少なくなかったらしく、長吏たちは避難を強制させるため、家屋や蓄えを破壊して逃げるしかないように仕向けたという。


そこに蝗の害や略奪も加わり、避難の途上で離散する者、のたれ死ぬ者、奴隷に身を落とすものがきわめて多かった、ということである。




これは強制避難、強制移住と呼ぶべきなのだろう。



これは羌に利用されないためでもあるのだろうが、元々そこに住んでいた者にとってはやりきれない。



内地出身の長吏が現地人の暮らしを守るよりは現地人の暮らしを破壊しても敵をやりすごすことの方を優先した結果なのだ、といった怨みを持った者も少なくなかったのではなかろうか。





この時の経験が当時の現地の人間には骨身に染みたことだろう、「内地から来た連中は逃げる算段ばかりで親身になって守ってはくれないのだ」と。




それは世代を超えて語り継がれ、羌胡以外の良民の間でも後漢の朝廷、中央政府に対する反抗的な態度を醸成していったのではないだろうか。