『潜夫論』を読んでみよう−救辺篇その1

三国志の時代の幕開けとも言える、袁紹らによる宦官の皆殺し。



これを袁紹に語った、言い換えれば入れ知恵した人物として、涼州出身の蓋勲という人物がいたことは既に述べた



また、それに続いて起こった大事件が涼州出身の董卓による皇帝廃立であり、反董卓の諸将の同盟と東西対立であり、そして長安への遷都である。





この二つの大事件は、いずれも「涼州」が一つのキーワードになっているのである。




王符字節信、安定臨芤人也。少好學、有志操、與馬融・竇章・張衡・崔瑗等友善。安定俗鄙庶孽、而符無外家、為郷人所賤。自和・安之後、世務游宦、當塗者更相薦引、而符獨耿介不同於俗、以此遂不得升進。志意蘊憤、乃隱居著書三十餘篇、以譏當時失得、不欲章顯其名、故號曰『潛夫論』。
(『後漢書』列伝第三十九、王符伝)

そんな後漢涼州において、優れた学識を持ちながら仕官することなく政治批判の書『潜夫論』を著したのが王符である。



『潜夫論』は後漢後半期の涼州の人間である王符によって記されていることから、その内容は当時の涼州の情勢を反映し、現地の人間の目から見た涼州が激しい中央政府批判と共に描かれていると言っていい。




そこで、『潜夫論』の中でも涼州の情勢や当時の政策などと関わりの深い篇を読んでみようと思う。



もしかしたら、これを読むことで董卓であるとか馬騰であるとか馬超であるとか韓遂であるとか韋端であるとか韋康であるとか姜維であるとかの涼州に深く関わる人たちの心境に迫れる・・・かもしれない(保証はしない)。







まずは「救辺篇」から読んでみる。


聖王之政、普覆兼愛、不私近密、不忽疏遠、吉凶禍福、與民共之、哀樂之情、恕以及人。視民如赤子、救禍如引手爛。是以四海歡悦、倶相得用。
往者羌虜背叛、始自涼並、延及司隸。東禍趙魏、西鈔蜀漢、五州殘破、六郡削跡、周回千里、野無孑遺。寇鈔禍害、晝夜不止、百姓滅沒、日月焦盡。而内郡之士、不被殃者、咸云當且放縱、以待天時。用意若此、豈人心也哉?
(『潜夫論』救辺第二十二)


聖王の政治というのは、天下万民を平等に愛し、近しい人間だからといって贔屓したり、疎遠な人間だからといっておろそかにしたりせず、良いことも悪いことも共有し、人の悲しみや喜びに共感するのである。



聖王は民を自らの赤子と思い、火傷して手を引く時のようにすぐに禍から救おうとするものなのである。



だからこそ天下は皆聖王の政治を喜び、聖王のために力を尽くすのである。




先に、羌族が反乱を起こすと、涼州から始まり司隸や蜀にも広がり、千里の内は無人の野となった。



しかしながら、被害を蒙らなかった内郡の人間たちは皆「しばらく羌族の好きにさせておいて、天の与える好機を待ちましょう」などと言っていた。



これがまともな人間の心の持ち主と言えるのだろうか!!



まずはここまで。



最初にいにしえの聖王は遠くの人間であっても非情にも見捨てたりはしないのだ、と説く。



そして、涼州における羌の大乱(少し前の記事で言及したもののことである)の際に内郡の人間は涼州を本気で救おうとしないどころか見捨てようとしていた、と告発するのであった。




早くも荒れ狂う王符先生の筆。





続く。