涼州放棄論

永初四年、羌胡反亂、殘破并・涼、大將軍訒騭以軍役方費、事不相贍、欲弃涼州、并力北邊、乃會公卿集議。騭曰「譬若衣敗、壞一以相補、猶有所完。若不如此、將兩無所保。」議者咸同。
(虞)詡聞之、乃説李脩曰「竊聞公卿定策當弃涼州、求之愚心、未見其便。先帝開拓土字、劬勞後定、而今憚小費、舉而弃之。涼州既弃、即以三輔為塞。三輔為塞、則園陵單外。此不可之甚者也。喭曰『關西出將、關東出相。』觀其習兵壯勇、實過餘州。今羌胡所以不敢入據三輔、為心腹之害者、以涼州在後故也。其土人所以推鋒執鋭、無反顧之心者、為臣屬於漢故也。若弃其境域、徙其人庶、安土重遷、必生異志。如使豪雄相聚、席卷而東、雖賁・育為卒、太公為將、猶恐不足當禦。議者喻以補衣猶有所完、詡恐其疽食侵淫而無限極。弃之非計。」脩曰「吾意不及此。微子之言、幾敗國事。然則計當安出?」詡曰「今涼土擾動、人情不安、竊憂卒然有非常之變。誠宜令四府九卿、各辟彼州數人、其牧守令長子弟皆除為宂官、外以勸窅、荅其功勤、内以拘致、防其邪計。」脩善其言、更集四府、皆從詡議。於是辟西州豪桀為掾屬、拜牧守長吏子弟為郎、以安慰之。
(『後漢書』列伝第四十八、虞詡伝)

後漢代、永初年間の涼州における羌の大乱を承け、朝廷では大将軍訒騭を中心に涼州放棄論が出ており、実現寸前だったという。




つまり涼州を維持するための軍事費、兵力などが不足しており、西を捨てて北辺に力を集中したい、ということらしい。




先日の記事の郡放棄を州レベルでやろうとしたということになるのだろう。






だが、太尉李修の元にいた虞詡は反対を唱えた。



涼州を放棄すれば今度は長安近辺(三輔)が羌の攻撃に晒されることになる、という。



まあ、これは当然そうなるのだろう。





また対策として、涼州の官吏の子弟を朝廷で郎官に取り立てて恩賞と人質を兼ねることで反乱を防ぐ、ということも述べている。



これは逆に言うと、この当時の涼州で心配されていたのは羌だけではなく、現地人の反乱もだった、ということを示しているのだろう。





羌の攻撃に晒されて劣勢であり、しかも先日の記事にもあるように望まぬ強制移住までされた者も多かったわけだから、涼州人は中央政府に対して不満や不信を抱いた状態だったのだろう。




もしかしたら、涼州放棄論は「このままでは涼州の人間が漢から離反する」という危機感から生まれているのかもしれない。