@Golden_hamster 人質を取られる事自体が嫌っていう前提はあるとしても、そういう法律があったから、孫権は絶対に孫登を差し出さなかった側面もあるんですかね。
— 六合 (@Rieg__Goh) 2014, 8月 15
このツイートあたりからちょっと考えてみたこと。
初(孫)權外託事魏、而誠心不款。魏乃遣侍中辛毗・尚書桓階往與盟誓、幷徴任子、權辭讓不受。秋九月、魏乃命曹休・張遼・臧霸出洞口、曹仁出濡須、曹真・夏侯尚・張郃・徐晃圍南郡。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)
孫権は魏(曹丕)に対して臣従のポーズを見せ、曹丕も呉王などの極めて手厚い地位や事実上の独立状態追認によって報いた。
しかし任子すなわち人質として孫権の子孫登を出すべしとの魏の要求を断り、その翌年に魏の総攻撃を受けることになった。
任子問題が魏と呉の戦端を開いたようにも見える経緯となっているが、これはどういうことなのか。
人質といっても子はその気になれば替えが効く、という冷徹な考えもできるはずで、それなら任子くらい出しても良かったのではないか。孫権はなぜ頑なに拒んだのか。
思うに、任子というのは魏の例では辺郡の太守も出している。
呉が任子を出せば、魏にとっては呉は太守と同等の臣下だということを自ら認めた、ということになるのではないか。
これは最終的には完全独立と天下の併呑を狙う呉にしてみれば外交的敗北というものだろう。
魏の下に付くといっても、あくまでも臣下ではなく同格に限りなく近い同盟者という位置づけは最低ラインだったのではないだろうか。
逆に魏にしてみれば、呉王や九錫、荊・揚・交州の事実上の統治権を与えるという破格の条件の代わり、あくまでも任子を出す臣下として振る舞え、というのが交換条件だったのではないだろうか。
皇帝としての体面もあるし、実際の政治上も孫権の長子を任子にすれば呉の後継者問題に対して切り札を持ったことになる。
臣従の担保として任子が必須だったのだろう。
こうしてみると、任子を出すか出さないかはこの時の魏と呉にとっては割と重大な問題だったように思える。
このことが戦端を開く原因の一つになったとしてもそれほど不思議ではないのかもしれない。