曹操が愛してくれた周不疑は死んだ!何故だ?―坊やだからさ

(劉)先甥同郡周不疑、字元直、零陵人。先賢傳稱不疑幼有異才、聰明敏達、太祖欲以女妻之、不疑不敢當。太祖愛子倉舒、夙有才智、謂可與不疑為儔。及倉舒卒、太祖心忌不疑、欲除之。文帝諫以為不可、太祖曰「此人非汝所能駕御也。」乃遣刺客殺之。
(『三国志』巻六、劉表伝注)

後漢末、零陵の周不疑という若者(十代後半)が曹操に才能を評価されていたく気に入られ、娘婿にならないかとまで言われた(断っている)。



曹操は「我が子倉舒(曹沖)は周不疑の同類だな」と言ったそうで、これはつまり曹沖自慢であった。



だが、その曹沖が死んでしまうと、周不疑のことを排除しようと考えた。



曹丕がそれを諌めようとすると、「周不疑はお前には制御できまい」と言い、結局刺客に殺させた、のだそうだ。




なかなかに酷い話なので信憑性を怪しむ向きもあるだろうが、これがある程度は実際にあったことの反映だとすると、以下の事が読み取れる。




まず、曹操はこの時に曹丕ではなく曹沖を後継者と思っており、天才少年の周不疑をその腹心にしようとしていた、ということ。



そして、曹沖が死ぬと「曹沖より劣る曹丕を後継者にせざるを得なくなった」と曹操が考えていたこと。





それらの点は、曹沖に関するこの記事とも符合していると言えないことも無い。

太祖數對羣臣稱述、有欲傳後意。年十三、建安十三年疾病、太祖親為請命。及亡、哀甚。文帝𥶡喻太祖、太祖曰「此我之不幸、而汝曹之幸也。」言則流涕、為聘甄氏亡女與合葬、贈騎都尉印綬、命宛侯據子蒴奉沖後。
(『三国志』巻二十、訒哀王沖伝)


曹操は曹沖を特に評価し、後継者にしようとしていた。



群臣にも言っていたというから、部下や近臣の誰もがわかっていたレベルだったのだろう。




だが、建安13年に13歳にして亡くなると曹操はとてつもなく落胆し、曹丕が自分の身体を大事にするようにと声をかけると「ワシの不幸はお前らにとっては幸福じゃのう!」と悪態をついたのだという。



つまり、曹丕にとってみれば後継者が曹沖に決まりかけていたのにひっくりかえったから幸福だ、と言っているわけだ。





父親が息子に投げかける言葉としては最低のもの一つという感じだが、まあそれくらい曹操の中では曹沖以外の後継者はありえないと思っていたということなのかもしれない。






ところで、曹沖が死んだのは建安13年だという。



また周不疑は荊州の人間である。



建安13年といえば曹操荊州に攻め込み劉蒴を降伏させた年である。




となると、曹操と周不疑とは降伏させた荊州で出会ったのだろうか。





であれば、急に手のひらを返して暗殺してしまうことについて、もう一つの側面を考えることが出来るかもしれない。





つまり、荊州占領直後に周不疑に出会い、曹沖の側近にとまで考えたが、その後赤壁でやらかして荊州からも逃げ去ることとなり、「周不疑が自分が逃げ出した後の荊州劉備孫権に仕える」ことが心配になったのではないか。




最大級に認めた人材ということは、敵に回れば最大級に危険な存在になるわけだ。


まして彼はまだ仕官前の少年の域であり、仕官適齢期に故郷が劉備らの支配下だったらそちらに付かないとも限らない。



殺すのに刺客を放っているというのも、もしかすると殺害を決心した時には既に曹操は周不疑を自分の管理下に置いていなかった(つまり曹操は北帰して周不疑は荊州に残留していた)ということかもしれない。





曹丕に周不疑を扱えないと思ったというのも曹操の本心だったのかもしれないが、殺害まで考えた事情としては荊州南部の事実上の放棄の方が重大だったのではなかろうか。