二千石の人相

魏略曰、(張)緝字敬仲、太和中為温令、名有治能。會諸葛亮出、緝上便宜、詔以問中書令孫資、資以為有籌略、遂召拜騎都尉、遣參征蜀軍。軍罷、入為尚書郎、以稱職為明帝所識。帝以為緝之材能多所堪任、試呼相者相之。相者云「不過二千石。」帝曰「何材如是而位止二千石乎?」及在東莞、領兵數千人。緝性吝於財而矜於勢、一旦以女徴去郡、還坐里舍、悒悒躁擾。
(『三国志』巻十五、張既伝注引『魏略』)

魏の張既の子の張緝は烈祖様に評価され、彼の能力なら色々な職をこなせるだろうと考え、人相見に見せてみた、という。



人相見は「二千石(太守の官秩)より上にならずに終わるでしょう」と答えたが、烈祖様は「これほどの才能があるのに二千石で終わらないだろ?!」と言ったのだとか。



そんな張緝は吝嗇で有名だったそうだが、吝嗇である事と(少なくとも烈祖様が評価する)政治的能力はあまり関係が無いのだろう。




まあ、以前の東莞太守だった胡質が極度の清貧志向だったようなので、張緝は普通程度の官僚でも相対的に吝嗇に見えた、という可能性も無くはない。




なお、張緝は娘が皇后になったために光禄大夫(二千石と同格のはず)になり、その後誅殺される事になったので、確かに二千石より上になる事はなかった。娘が皇后にならなければ殺されずにもっと出世できたのだろうか。




官僚の能力を見定める上で人相見の占断を参考にするというのが興味深い。