烈祖様の足取り

(太和六年)九月、行幸摩陂、治許昌宮、起景福・承光殿。
冬十月、殄夷將軍田豫帥眾討呉將周賀於成山、殺賀。
十一月丙寅、太白晝見。有星孛于翼、近太微上將星。庚寅、陳思王植薨。
十二月、行還許昌宮。
青龍元年春正月甲申、青龍見郟之摩陂井中。
二月丁酉、幸摩陂觀龍、於是改年。改摩陂為龍陂。賜男子爵人二級、鰥寡孤獨無出今年租賦。
(『三国志』巻三、明帝紀

烈祖様は太和6年9月に大臣も理由をいぶかしむ摩陂行幸の後で許昌へ戻ってきた。



しかし翌年正月に摩陂でブルードラゴン登場の報を聞き、翌2月には再度摩陂へ行幸した、という事か。



魏明帝青龍元年正月甲申、青龍見郟之摩陂井。帝親與羣臣共觀之、既而詔畫工圖寫、龍潛而不見。
(『宋書』巻二十八、符瑞志中)

ところで、この時のドラゴンを、烈祖様とゆかいな仲間たちは見る事が出来たのだろうか?


この書き方だと、先に神絵師に描かせている間に見えなくなったようにも思えるし、烈祖様たちが見ているうちに消えたようにも、どちらにも思えるが・・・。






前年9月の行幸時に現地の人間に何か言い含めたの?などと言いたくならないでもないが、それは勘ぐり過ぎというものか。