太和初、蜀相諸葛亮圍祁山、明帝欲西征、(鍾)毓上疏曰「夫策貴廟勝、功尚帷幄、不下殿堂之上、而決勝千里之外。車駕宜鎮守中土、以為四方威勢之援。今大軍西征、雖有百倍之威、於關中之費、所損非一。且盛暑行師、詩人所重、實非至尊動軔之時也。」遷黄門侍郎。
(『三国志』巻十三、鍾毓伝)
黄初7年6月、烈祖様は文帝曹丕の葬送の見送りを暑さを理由に止められた。
太和2年正月の諸葛亮の侵攻に自ら出征しようとする烈祖様は、鍾毓に暑さを理由に止められた。長安までは行っているが。
烈祖様はもう十分大人な年齢の筈なのだが、まるで健康が危ぶまれる状態であるかのように臣下から暑さを気にされている。本当の理由は別にあったかもしれないし、実際に何か健康に問題があったからではなく単なる方便の可能性も高いだろうが、ちょっと興味深い傾向だ。
なお、諸葛亮が撃退された後の太和2年夏には「大旱」であったというので、この年前後が妙に気温が高く、暑い夏だった(なりそうだった)というのもあったりするのかもしれないが・・・。