曹丕の邪教禁止令

十二月、詔曰「先王制禮、所以昭孝事祖、大則郊社、其次宗廟、三辰五行、名山大川、非此族也、不在祀典。叔世衰亂、崇信巫史、至乃宮殿之内、戶牖之閒、無不沃酹、甚矣其惑也。自今、其敢設非祀之祭、巫祝之言、皆以執左道論、著于令典。」
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初五年)

魏の文帝曹丕は「偉大な聖人が制定した礼では社稷や先祖を祀り、天や五行や名山・大川を祀るとされていたが、末世においては怪しい呪い師の類に宮殿内ですら惑わされていた。今より以降は、祀るべきでない祭事や、怪しい祈祷を立てようとする者は呪詛を行ったのと同様の罪とする」といった命令を出した。



末世的な淫祀邪教は断固排除する、という、これから悠久の太平をもたらす王朝にふさわしい高邁な命令と言っていいだろう。




この事自体は曹操が現地信仰を根絶しようとした件にも通じる合理的精神の表れと言えるのかもしれないが、そこで思うのは、魏において張魯五斗米道はどう扱われていたんだろう、ということだ。この教えは偉大な聖人が定めた礼にあるものとは違っていそうなのだが・・・。



朝廷で行われていない分には構わないということだったのだろうか?




初、青龍三年中、壽春農民妻自言為天神所下、命為登女、當營衛帝室、蠲邪納福。飲人以水、及以洗瘡、或多愈者。於是立館後宮、下詔稱揚、甚見優寵。及帝疾、飲水無驗、於是殺焉。
(『三国志』巻三、明帝紀、景初二年)


それと、その後に烈祖様が信奉した謎水、これは黄初5年の命令に抵触しなかったんだろうか・・・?



抵触しないような合法謎水だった可能性も、曹丕の命令(ずっと守らないといけない)を無視していた可能性も、どちらもありそう・・・。