(建安十一年正月)己丑、增封(曹)操、并前三萬戸、食柘城・陽夏四縣、比鄧禹・呉漢故事。
(『後漢紀』孝献帝紀巻第二十九)
魏武故事載公(建安十五年)十二月己亥令曰・・・(中略)・・・今上還陽夏・柘・苦三縣戸二萬、但食武平萬戸、且以分損謗議、少減孤之責也。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『魏武故事』)
曹操の列侯の封邑について。
ここからわかるのは以下の事。
- 曹操の封邑が最大だった時は「武平」「陽夏」「柘」「苦」の4県で3万戸。
- 建安10年に1万3000戸増えた。
- 建安11年に「陽夏」「柘」を加えて3万戸に増えた。
- 建安15年に「武平」1万戸だけになった。
ということは、おそらくだが建安10年に「苦」(県名。老子の出身地として有名)を加えられたのだろう。
この「武平」「陽夏」「柘」「苦」はいずれも陳国の県。
陳国は『続漢書』郡国志二によれば11万戸ほどの戸数とされているので、最大時は陳国内の4分の1以上が曹操の領有地だったことになる。
一度大きく戸数を減らしたとはいえ、これ以上の地位・領土となるともはや県侯のレベルでは済まない、というのはあるだろう。
さりとてこういった増封を固辞し続けてしまうと、曹操より下の者にとっては曹操の爵位・領地がレベルキャップとなってしまい、あまり出世・領土が見込めないという事になってしまう。
曹操が次に「侯」を超える「公」になるというのは、こういう事情もあったと思われる。
もっとも、1郡に満たない領土から急に10郡の領主というのは急激に過ぎる気がしないでもない。環境の変化に弱い生き物なら死んでしまうくらいの変化だ。