貧しい荊州刺史

晉陽秋曰、(胡)威字伯虎。少有志尚、厲操清白。(胡)質之為荊州也、威自京都省之。家貧、無車馬童僕、威自驅驢單行、拝見父。停廐中十餘日、告歸。臨辭、質賜絹一疋、為道路糧。威跪曰「大人清白、不審於何得此絹?」質曰「是吾俸祿之餘、故以為汝糧耳。」威受之、辭歸。毎至客舍、自放驢、取樵炊爨、食畢、復隨旅進道、往還如是。質帳下都督、素不相識、先其將歸、請假還家、陰資裝百餘里要之、因與為伴、毎事佐助經營之、又少進飲食、行數百里。威疑之、密誘問、乃知其都督也、因取向所賜絹答謝而遣之。後因他信、具以白質。質杖其都督一百、除吏名。其父子清慎如此。
(『三国志』巻二十七、胡質伝注引『晋陽秋』)

魏で荊州刺史や征東将軍になった胡質やその後継ぎの胡威は清廉な人柄で知られたという。



胡質は荊州刺史にまでなっていながら、その子胡威は家が貧しいために童僕もまともな馬もなく、ロバ一頭をお供に父胡質に会いに行ったのだとか。


この時期既に関内侯にはなってるはずなのだが、そんなに経済的に苦しくなるものなのだろうか。いや、官の俸給や恩賞では足りず、在官時の「余禄」を蓄えるか実家が相当「太い」かでないと維持できないのが普通ということか。





四征将軍というと、魏では余禄が美味しい職場だったような印象があるわけだが、そんな地位にいてもなお清廉という評判に傷が付かなかったらしい胡質のガチさ加減は、このエピソードにも表れている、かもしれない。