陳王・受け継がれる想い

かの後漢末の陳王劉寵は、黄巾の乱の時に「彊弩數千張」を所持していたという。




しかし陳国は数代前の思王鈞の時にやらかして領土を削られ、劉寵自身も皇帝の呪詛容疑で捕まったりしている。




弩数千を揃える費用はどこから出てきたのだろうか?



それだけの軍備を整える自由と裁量があったのだろうか?



鈞立、多不法、遂行天子大射禮。性隠賊、喜文法、國相二千石不與相得者、輒陰中之。
(『後漢書』列伝第四十、陳敬王羨伝)

思えば、この陳思王劉鈞は天子の礼を行う(つまり僭上の沙汰であり大罪である)一方で自分の監視役とも言える国相を陥れるという、かなり生臭い人物であった。



彼の時代から「自分が本当に天子になるために」と蓄財と軍備増強を密かに進めていた、みたいな話なら納得できる。



承薨、子愍王寵嗣。熹平二年、國相師遷追奏前相魏愔與寵共祭天神、希幸非冀、罪至不道。有司奏遣使者案驗。是時新誅勃海王悝、靈帝不忍復加法、詔檻車傳送愔・遷詣北寺詔獄、使中常侍王酺與尚書令・侍御史雜考。愔辭與王共祭黄老君、求長生福而已、無它冀幸。酺等奏愔職在匡正、而所為不端,遷誣告其王、罔以不道、皆誅死。有詔赦寵不案。
(『後漢書』列伝第四十、陳敬王羨伝)

そして、その陳思王劉鈞の思いが劉寵にも伝えられていて劉寵がそれを実現させようと呪詛していたのだという方が、その後の劉寵の少々胡散臭さのある行動とも辻褄が合ってくるように思えないこともない。