袁渙の生存戦略

袁渙字曜卿、陳郡扶樂人也。父滂、為漢司徒。當時諸公子多越法度、而渙清靜、舉動必以禮。郡命為功曹、郡中姦吏皆自引去。
後辟公府、舉高第、遷侍御史。除譙令,不就。劉備之為豫州、舉渙茂才。
後避地江・淮間、為袁術所命。術毎有所咨訪、渙常正議、術不能抗、然敬之不敢不禮也。頃之、呂布撃術於阜陵、渙往從之、遂復為布所拘留。布初與劉備和親、後離隙。布欲使渙作書詈辱備、渙不可、再三彊之、不許。布大怒、以兵脅渙曰「為之則生、不為則死。」渙顔色不變、笑而應之曰「渙聞唯徳可以辱人、不聞以罵。使彼固君子邪、且不恥將軍之言、彼誠小人邪、將復將軍之意、則辱在此不在於彼。且渙他日之事劉將軍、猶今日之事將軍也、如一旦去此、復罵將軍、可乎?」布慚而止。布誅、渙得歸太祖。
(『三国志』巻十一、袁渙伝)

陳群が比較対象される人物袁渙。彼は予州の譙県令に赴任しなかったが、予州刺史劉備によって茂才に推挙された、という。彼の劉備への義理立てはこの「挙主」であるというのが大きいのかもしれない。なお陳群も同じく劉備に茂才に推挙されている。



ここを見ると劉備には直接仕官していないようにも思えるのだが、呂布に対して語った所では「渙他日之事劉將軍」と、劉備の元で働いていたようにも読める。




茂才は幕僚からしか選べないわけではなかったと思うが、陳群がそうであったように幕僚から選ぶ方が自然ではあるし、何故か明記されていないだけで劉備の幕僚でもあったということか。




また、この経歴からすると、袁渙は劉備袁術呂布曹操と勢力を渡り歩いた事になる。



穿った見方をするなら、こういった節操のないようにも見える経歴で、しかも皇帝を名のった反逆者袁術にも仕えていたからこそ、せめて「挙主・旧主への義理堅さ」だけはしっかりアピールしていく必要があった、という事もあり得るか。