万一に備えて欠席

帝愛女淑、未期而夭、帝痛之甚、追封平原公主、立廟洛陽、葬於南陵。將自臨送、(楊)阜上疏曰「文皇帝・武宣皇后崩、陛下皆不送葬、所以重社稷、備不虞也。何至孩抱之赤子而可送葬也哉?」帝不從。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)

魏の明帝こと烈祖様は、娘が夭逝すると大変悲しみ、その埋葬を自ら見送ろうとした。



だがそれに楊阜が意見した。




「文帝(曹丕)の時も、武宣皇后(曹丕の母卞氏)の時も、陛下は万一に備えるため埋葬を見送らなかったではないですか。なぜ赤子の埋葬は見送るのでしょうか?」



太和六年、明帝愛女淑薨、追封諡淑為平原懿公主、為之立廟。取后亡從孫黄與合葬、追封黄列侯、以夫人郭氏從弟悳為之後、承甄氏姓、封悳為平原侯、襲公主爵。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝)


烈祖様にとって愛娘は大事だろうが、曹丕卞氏も娘もどちらも見送りに出るならともかく、即位直後の文帝の埋葬やその4年後の卞氏の埋葬には出ないのに、そのほんの2年後太和6年の今回に限っては「万一に備える」必要が無いというのは、確かに理屈が通りにくいだろう。





魏氏春秋曰、明帝將送葬、曹真・陳羣・王朗等以暑熱固諫、乃止。
(『三国志』巻二、文帝紀注引『魏氏春秋』)

なお文帝の時は大臣たちが「暑いから」という理由で止めたという。この葬儀は6月頃の事。


卞氏も7月頃の事になる。



平原公主の時はそれより涼しい時分だったから出て行こうとしたという可能性はあるが、それにしたって「夭逝した娘の時だけ出てくる」というのは当時の人々からすると印象が良くなかったのではないか、とは思う。