曹操の魏国の郎中令(行御史大夫事)袁渙は、かつて自分が仕えた劉備が死んだという風聞が魏国に流れた時、群臣が皆祝賀した中ひとりだけ祝賀しなかった。
曹丕の元へ亡命した黄権は、これまで自分が仕えた劉備が死んだ時、群臣が皆祝賀した中ひとりだけ祝賀しなかった。
まあ、魏の臣下が宿敵にして朝敵であるところの劉備の死を祝賀するのは当然と言っていいし、劉備とのかつての関係から袁渙・黄権が祝賀を拒否するのも当時の感覚で褒められてしかるべき事だったのだろう。
劉備臨豫州、辟(陳)羣為別駕。
・・・(中略)・・・
魏國既建、遷為御史中丞。
・・・(中略)・・・
及踐阼、遷尚書僕射、加侍中、徙尚書令、進爵穎郷侯。
(『三国志』巻二十二、陳羣伝)
なお陳群(陳羣)はかつて劉備に招かれて仕え、劉備の凶報が聞こえた時には魏国や魏の朝廷で重臣と言ってよいポジションにいたが、袁渙・黄権のような話が伝わっていないようである。つまり・・・。
袁渙・黄権の節義は、「劉備に仕えていたがその死を祝賀した」魏臣が間近にいたからこそ、輝いたのかもしれない。
陳群は陳群でブレなかった、と言ってやることも出来ない事はない。