陳群、逃げ出した後

劉備豫州、辟(陳)羣為別駕。
陶謙病死、徐州迎備、備欲往、羣説備曰「袁術尚彊、今東、必與之爭。呂布若襲將軍之後、將軍雖得徐州、事必無成。」備遂東、與袁術戰。布果襲下邳、遣兵助術、大破備軍、備恨不用羣言。
舉茂才、除柘令、不行、隨(陳)紀避難徐州、屬呂布、破、太祖辟羣為司空西曹掾屬。
(『三国志』巻二十二、陳羣伝)

先主遂領徐州。袁術來攻先主、先主拒之於盱眙・淮陰。曹公表先主為鎮東將軍、封宜城亭侯。是歳建安元年也。
先主與術相持經月、呂布乗虛襲下邳。下邳守將曹豹反、閒迎布。布虜先主妻子、先主轉軍海西。楊奉・韓暹寇徐・揚閒、先主邀撃、盡斬之。先主求和於呂布、布其妻子。先主遣關羽守下邳。
(『三国志』巻三十二、先主伝)

陳群は建安元年前後に茂才に推挙されて陳国の柘県令に任命されたが赴任せず、呂布の元へ行ったということらしい。



十二月、雍丘潰、(張)超自殺。夷(張)邈三族。邈詣袁術請救、為其衆所殺、兗州平、遂東略陳地。
是歳、長安亂、天子東遷、敗于曹陽、渡河幸安邑。
建安元年春正月、太祖軍臨武平、袁術所置陳相袁嗣降。
(『三国志』巻一、武帝紀)


この時期、陳群の上司だった劉備曹操袁紹に近い立場だったのではないかと考えられる。劉備の鎮東将軍も曹操によるものであった。という事は陳群を推挙した先も事実上は袁紹曹操である。柘県令に任命したのも柘県近辺がテリトリーの曹操ではなかろうか。



なお、この時期の曹操は陳国攻略を行っていた頃なので、この時に陳群が任命された陳国柘県令というのは、「曹操による占領地の長官」だったのではなかろうか。





これに応じなかった陳群は、曹操から一度逃げ出したのだ、と言えるのではないか。