烈祖様の住処

青龍元年春正月甲申、青龍見郟之摩陂井中。二月丁酉、幸摩陂觀龍、於是改年。改摩陂為龍陂、賜男子爵人二級、鰥寡孤獨無出今年租賦。
(『三国志』巻三、明帝紀

魏の明帝曹叡こと烈祖様、昨日の記事(太和6年)に許昌へ行った後、行幸した摩陂でブルードラゴンが出現。そこで再度摩陂へ行き、「青竜元年」と改元した。




この後、烈祖様は洛陽に戻ったとは書かれていない。どこにいたのだろうか?




そして翌青竜2年は孫権の攻撃に対し親征を行い、孫権が退くと許昌宮に戻っている。



となると、烈祖様は少なくとも洛陽には戻らずにいたのか?



八月庚午、立皇子芳為齊王、詢為秦王。丁巳、行還洛陽宮。命有司復崇華、改名九龍殿。冬十月己酉、中山王兗薨。壬申、太白晝見。十一月丁酉、行幸許昌宮。
(『三国志』巻三、明帝紀、青龍三年)

青竜3年、烈祖様は10月に洛陽に戻るが翌月には許昌宮へ行っている。


十月己卯、行還洛陽宮。甲申、有星孛于大辰、乙酉、又孛于東方。十一月己亥、彗星見、犯宦者天紀星。十二月癸巳、司空陳羣薨。乙未、行幸許昌宮。
(『三国志』巻三、明帝紀、青龍四年)

青竜4年、烈祖様はまた10月に洛陽に戻り、12月には許昌宮へ行っている。





その翌年景初元年5月に洛陽に戻り、それから死ぬまで洛陽。





こうして見ると、烈祖様は4年間の青竜年間はまるで洛陽に戻らず、許昌の方をホームにしているかのようである。




洛陽は大土木工事中だったから出ていたのかもしれないし、呉・蜀漢に対応するためだったのかもしれないが、何にせよ烈祖様は都のはずの洛陽にはあまりいない皇帝だったようだ。