平原懿公主の死亡時期

後皇女淑薨、追封諡平原懿公主。
(陳)羣上疏曰「長短有命、存亡有分。故聖人制禮、或抑或致、以求厥中。防墓有不脩之儉、嬴・博有不歸之魂。夫大人動合天地、垂之無窮、又大徳不踰閑、動為師表故也。八歲下殤、禮所不備、況未期月、而以成人禮送之、加為制服、舉朝素衣、朝夕哭臨、自古已來、未有此比。而乃復自往視陵、親臨祖載。願陛下抑割無益有損之事、但悉聽羣臣送葬、乞車駕不行、此萬國之至望也。聞車駕欲幸摩陂、實到許昌、二宮上下、皆悉倶東、舉朝大小、莫不驚怪。或言欲以避衰、或言欲於便處移殿舍、或不知何故。臣以為吉凶有命、禍福由人、移徙求安、則亦無益。若必當移避、繕治金墉城西宮、及孟津別宮、皆可權時分止。可無舉宮暴露野次、廢損盛節蠶農之要。又賊地聞之、以為大衰。加所煩費、不可計量。且吉士賢人、當盛衰、處安危、秉道信命、非徙其家以寧、郷邑從其風化、無恐懼之心。況乃帝王萬國之主、靜則天下安、動則天下擾。行止動靜、豈可輕脱哉?」
帝不聽。
(『三国志』巻二十二、陳羣伝)

昨日の話に絡んで、陳群も烈祖様に対して「幼い赤子に対して大人と同じ礼で葬ろうとし、しかも陛下自ら葬送を見送るのはおやめなさい」と諫言していた。



夏四月壬寅、行幸許昌宮。甲子、初進新果于廟。五月、皇子殷薨、追封諡安平哀王。秋七月、以衛尉董昭為司徒。九月、行幸摩陂、治許昌宮、起景福・承光殿。
(『三国志』巻三、明帝紀、太和六年)

陳群はそれ以降の話で4月から始まり9月に挙行された「摩陂への行幸」を止めようとしている。


ということは、この諫言があった頃、すなわち平原懿公主が死去して烈祖様が葬送を見送ったのもこの時期。




これは曹丕卞氏の葬送とあまり変わらない時期だ。というか、暑くなる時期に都を出て野宿までしたのだ、という話になっている。




これでは、「暑いから体に差しさわりがあってはいけないから」ということで先代皇帝の葬送にすら出なかった理由が辻褄合わなくなってきてしまう。



先代皇帝の葬送の時に止めた側であったはずの陳群はそりゃ止めるよな。