老いてますます盛ん

以門尉前元年初起碭、至霸上、為武定君、入漢、還定三秦、以都尉撃項羽、侯。
六年、侯昭元年。九年、侯昭有罪、國除。
孝景三年、昭以故芒侯將兵從太尉亞夫撃呉楚有功、復侯。
後元年三月、侯申元年。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、芒)

以門尉前元年初起碭、至霸上、為定武君、入漢、還定三秦、為都尉撃項羽、功、侯。
六年封、三年薨、亡後。
九年、侯昭嗣、四年、有罪、免。孝景三年、詔以故列侯將兵撃呉楚、復封。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、芒侯耏跖)


漢の高祖の功臣の一人、「芒侯」。この人物は『史記』では姓が記されておらず、名は「昭」という。彼は自分の代の時に罪があって国を奪われていたが、あの呉楚七国の乱の時に漢王朝側の周亜夫に従って功を立てて芒侯に復帰した、という。




一方、『漢書』では「芒侯」は「耏跖」という姓名で、封建から3年で死去。その時は後継者がいなかったが、その後「昭」なる人物が侯を継いだが罪があって国を奪われた。この2代目の「昭」はあの呉楚七国の乱の時に漢王朝側の周亜夫に従って功を立てて芒侯に復帰した、という。




史記』と『漢書』で矛盾した内容となっている。



史記』では初代「昭」は高祖の功臣でありながら50年ほど後の呉楚七国の乱に従軍した事になる。高祖の元で働いていた時が20代か30代だとしても呉楚七国の乱の時にはかなりの老人である。




一方、『漢書』の方も初代「耏跖」が死んだ時には後継者がいなかったのに、後から「昭」なる2代目が出現した事になり、少々不可解である。ただ、高祖の功臣から2代目という事なら呉楚七国の乱に従軍していても不思議は無い。





史記』が正しいとすれば、劉邦項羽の戦いにも呉楚七国の乱にも従軍していたという事になるので、ちょっとロマンを感じる。