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(黄初三年)九月甲午、詔曰「夫婦人與政、亂之本也。自今以後、羣臣不得奏事太后、后族之家不得當輔政之任、又不得横受茅土之爵。以此詔傳後世、若有背違、天下共誅之。」
庚子、立皇后郭氏。
賜天下男子爵人二級、鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀。
(『三国志』巻二、文帝紀


曹丕が郭氏を皇后に立てる直前、「婦人が政治に関与するのは混乱の元なので、今後は臣下が皇太后に上奏する事を禁じる。外戚が輔政の任に当たる事や、不当に領土を受け取る事はできないものとする」*1といった決定を下した。




この「皇太后外戚の政治関与制限」と「立皇后」という2つの決定をほぼ同時に行ったのは何故か?





一つ考えられるのは、郭氏を皇后にする事に対して将来を危惧する者への回答だろう。


将来郭氏が皇太后になっても政治的実権は与えられないし、その親族が朝廷を牛耳るような事にはならない。だから安心しろ、というところだ。

黄初三年、將登后位、文帝欲立為后、中郎棧潛上疏曰「在昔帝王之治天下、不惟外輔、亦有内助、治亂所由、盛衰從之。故西陵配黄、英娥降媯、並以賢明、流芳上世。桀奔南巢、禍階末喜。紂以炮烙、怡悦妲己。是以聖哲慎立元妃、必取先代世族之家、擇其令淑以統六宮、虔奉宗廟、陰教聿修。易曰『家道正而天下定。』由内及外、先王之令典也。春秋書宗人釁夏云、無以妾為夫人之禮。齊桓誓命于葵丘、亦曰『無以妾為妻』。今後宮嬖寵、常亞乗輿。若因愛登后、使賤人暴貴、臣恐後世下陵上替、開張非度、亂自上起也。」文帝不從、遂立為皇后。
(『三国志』巻五、文徳郭皇后伝)

実際にこういう事を言っていた(皇后はしかるべき家から選ぶべき。身分の低い者を皇后にするのは限度を知らないから乱の元になる、といったところか)者がいたようだし*2。いくら皇帝でも、臣下の心配や不満を一切聞かずに強行するのではなく、それなりの対処をした上で皇后にする、ということだろう。




(建安)十六年七月、太祖征關中、武宣皇后從、留孟津、帝居守鄴。時武宣皇后體小不安、后不得定省、憂怖、晝夜泣涕。左右驟以差問告、后猶不信、曰「夫人在家、故疾毎動、輒歴時、今疾便差、何速也?此欲慰我意耳!」憂愈甚。後得武宣皇后還書、説疾已平復、后乃懽悦。十七年正月、大軍還鄴、后朝武宣皇后、望幄座悲喜、感動左右。武宣皇后見后如此、亦泣、且謂之曰「新婦謂吾前病如昔時困邪?吾時小小耳、十餘日即差、不當視我顔色乎!」嗟歎曰「此真孝婦也。」
二十一年、太祖東征、武宣皇后・文帝及明帝・東郷公主皆從、時后以病留鄴。二十二年九月、大軍還、武宣皇后左右侍御見后顔色豐盈、怪問之曰「后與二子別久、下流之情、不可為念、而后顔色更盛、何也?」后笑答之曰「叡等自隨夫人、我當何憂!」后之賢明以禮自持如此。
(『三国志』巻五、文昭甄皇后伝注引『魏書』)

もう一つ可能性があるのは、郭氏を皇后にする事に異を唱えそうな人物を封じたかったのではないか、というものだ。



曹丕の父曹操の時代、明らかに「次の后・次の太子」扱いされていたのが甄氏と曹叡こと烈祖様である。そして甄氏は「姑」である曹丕の実母卞氏に対して相当ゴマすrうやうやしく仕えていた。既に甄氏は死んでいるが、おそらくは甄氏の事を気に入っていたであろう卞氏としては、甄氏の死の原因とも言われる郭氏が皇后になるのには抵抗がある事だろう。


言うまでも無く、この皇后決定の時の皇太后というのが卞氏であり、曹丕は郭氏を皇后にしようと思ったら、卞氏に反対されないようにするか、あるいは反対を拒絶するか、いずれかが必要になってくる。


郭氏を皇后にする時に一番の難関になりそうなのが卞氏ということだ。そして、母である皇太后に反抗するというのは、儒教的精神からすればかなりの問題行動である。




そこで、先に「婦人は政治に口を出すべきではない」という、当時は一般的とも言える論法で皇太后が皇帝の決定に口を出しにくい空気と制度を作っておいて、それから皇太后の意に沿わない皇后を選んだ、という事だったのではなかろうか。





策を使って愛する郭氏を正妻にする事に成功したので勝者曹丕、ってことで。





*1:念のため言っておくが、これらはあくまでも当時の考えである。

*2:家柄といった点では曹操の正妻で当時の皇太后である卞氏も相当怪しいわけだが。