近場で済ませる

(黄初)六年春二月、遣使者循行許昌以東盡沛郡、問民所疾苦、貧者振貸之。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初六年)

魏文帝は使者を遣わし、民が苦しんでいることを聴取し、貧しい者へは施しを行った、という。




これ、許昌(そのころ文帝がいた)から沛郡までとあるが、予州までしか行っていないということになる。割と近場に限っている。



沛郡の隣は彭城郡や東海郡などの徐州なのだが、こちらには足を踏み入れていないということだ。




曹操による有名な虐殺もあり、孫権の領土とも接する徐州こそ民の苦しみを聞くべき場所のようにも思えるが、どうしてそこまで行かずに終わるんだろう?




徐州には皇帝の使者すら入りにくいほど荒れているのか?


それとも曹氏に恨み骨髄のため使者がうっかり足を踏み入れたら袋叩きになるのか?


あるいは文帝はガチで大変そうなところの声は聞きたくなかったのか?




特に沛郡にある譙は文帝の生まれ故郷で2年間の租税免除を受けたばかりなので、インタビューしたら陛下万歳とみんな言ってくれそうな場所。このあたりで使者の巡行をやめるというのは、ちょっと作為的な感じが無くもない。