嘘と沈黙

少し前に読んでみた「建安十五年十二月己亥令」について、孫権劉備の事は「江湖未靜」といった表現でしか言及されていない。


公至赤壁、與(劉)備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。
(『三国志』巻一、武帝紀)


そこで思うのは、曹操赤壁で戦ったのは劉備とされていて、むしろ中心的に戦ったはずの孫権周瑜)が特に言及されていないことである。



孫権はその前に合肥を攻めたとも書かれているので完全無視はされていないことになるが、赤壁について書かれていないというのは少し不思議な感じはある。



だが、件の十二月己亥令において、曹操は「遂平天下」などと天下平定をアピールしていた。



孫権はそれまでは基本的には親曹操というべきスタンスの勢力だったので、「孫権が離反して劉備と共に曹操と戦った」という事実を抹消できれば、親曹操勢力であるというかつてのステータスだけが残る。



十二月己亥令の理論展開としては、孫権曹操に背反していないことになっていたのではないだろうか?




だが、逆に劉備についてはむしろ敵としてある程度アピールが必要である。



なぜなら、十二月己亥令では「まだ反抗勢力が長江流域に残っている」ということを地位を返上しない理由に挙げているからだ。



曹操は自己保身のために明確な「敵」を必要としている。ただし、背反していることにしたくない孫権以外で。



となると、以前からの敵である劉備を敵としてアピールしていくしかない。




十二月己亥令独特の世界観の中では、「反乱者劉備赤壁で戦い、疫病蔓延で退却した。しかし劉表は倒し、孫権は元々恭順の意を表しているので、もはや天下は平定されたも同然である。ただし劉備はまだ残っているから職を辞するにはまだ早い」ということになっていたのではなかろうか。むろん、曹操にとって都合がよい架空の世界だ。



この世界観に合わせて当時の記録が作られたなら、赤壁で戦った敵は劉備でなければならないだろう。孫権合肥攻めそのものを改竄できないにしても、劉備に助力しただけで真っ向から逆らったのではない、赤壁で戦ったのはあくまで劉備、という事にしなければならない。逆に、曹操の保身のためには劉備の存在は適度にアピールした方がいい。




こういう当時の曹操の大人の事情が、武帝紀の有名な「公至赤壁、與(劉)備戰、不利」という記事を産んだのではなかろうか?