計算外

是後、太祖拒袁紹於官渡、紹遣人招(張)繡、并與(賈)詡書結援。繡欲許之、詡顯於繡坐上謂紹使曰「歸謝袁本初、兄弟不能相容、而能容天下國士乎?」繡驚懼曰「何至於此!」竊謂詡曰「若此、當何歸?」詡曰「不如從曹公。」繡曰「袁彊曹弱、又與曹為讎、從之如何?」詡曰「此乃所以宜從也。夫曹公奉天子以令天下、其宜從一也。紹彊盛、我以少衆從之、必不以我為重。曹公衆弱、其得我必喜、其宜從二也。夫有霸王之志者、固將釋私怨、以明徳於四海、其宜從三也。願將軍無疑!」繡從之、率衆歸太祖。太祖見之喜、執詡手曰「使我信重於天下者子也。」表詡為執金吾、封都亭侯、遷冀州牧。
(『三国志』巻十、賈詡伝)


かの張繍賈詡は、強勢の袁紹ではなく弱小の曹操に従ったのだ、とされる。


(建安四年)九月、公還許、分兵守官渡。
冬十一月、張繡率衆降、封列侯。
十二月、公軍官渡。
袁術自敗於陳、稍困、袁譚青州遣迎之。術欲從下邳北過、公遣劉備・朱靈要之。會術病死。程昱・郭嘉聞公遣備、言於公曰「劉備不可縱。」公悔、追之不及。備之未東也、陰與董承等謀反、至下邳、遂殺徐州刺史車冑、舉兵屯沛。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安四年)

張繍曹操に従った時期は、『三国志武帝紀を見る限りでは劉備曹操から離反するよりは前のように見える。



実際は同時に近かったのだとしても、張繍らは劉備袁紹に付いていない段階で曹操に付くことを決めたのではないかと思う。



劉備離反後に一気に曹操の旗色が悪くなったところから考えるに、張繍賈詡劉備離反という計算外に「ヤベェ間違えたかも」などと内心焦っていたのではないか、などと思わないでもない。