前漢

ところでこいつは私の虎子さ

續漢志曰「侍中、比二千石、無員。」漢官儀曰「侍中、左蟬右貂、本秦丞相史、往來殿内、故謂之侍中。分掌乗輿服物、下至褻器虎子之屬。武帝時、孔安國為侍中、以其儒者、特聽掌御唾壺、朝廷榮之。至東京時、屬少府、亦無員。駕出則一人負傳國璽、操斬蛇劒、…

配送停止

謝承書曰「 唐羌字伯游、辟公府、補臨武長。縣接交州、舊獻龍眼・荔支及生鮮、獻之驛馬晝夜傳送之、至有遭虎狼毒害、頓仆死亡不絶。道經臨武、羌乃上書諫曰『臣聞上不以滋味為徳、下不以貢膳為功、故天子食太牢為尊、不以果實為珍。伏見交阯七郡獻生龍眼等、…

いぬやしき

初、(江)充召見犬臺宮、自請願以所常被服冠見上。 晉灼曰「黄圖上林有犬臺宮、外有走狗觀也。」師古曰「今書本犬臺有作太壹字者、誤也。漢無太壹宮也。」 (『漢書』巻四十五、江充伝) 前漢の上林苑の中には「犬台宮」「走狗観」といった場所があったとい…

大庭園の町

京兆尹。秦内史、武帝改。其四縣、建武十五年屬。雒陽西九百五十里。十城、戸五萬三千二百九十九、口二十八萬五千五百七十四。 長安。高帝所都。 鎬。在上林菀中。 ・・・(後略)・・・ (『続漢書』志第十九、郡国志一、司隷、京兆尹) へえ、京兆尹にある…

メモ

『漢書』地理志を眺めてみたところ、都尉の「治」(役所)がどこにあるか記載されている郡とされていない郡がある。 これ、何も記載されていないのは、郡太守の「治」(各郡の筆頭に書かれている県のはず)と同じ場所だから省略した、という事じゃないだろう…

左右京輔都尉

中尉、秦官、掌徼循京師。有両丞・候・司馬・千人。武帝太初元年更名執金吾。屬官有中壘・寺互・武庫・都船四令丞。都船・武庫有三丞、中壘両尉。又式道左右中候・候丞及左右京輔都尉・尉丞兵卒皆屬焉。初、寺互屬少府、中屬主爵、後屬中尉。 (『漢書』巻十…

左輔都尉

黄龍元年、(孫)權稱尊號、立為皇太子、以(諸葛)恪為左輔、(張)休右弼、(顧)譚為輔正、(陳)表為翼正都尉、是為四友。 (『三国志』巻五十九、孫登伝) 諸葛恪字元遜、瑾長子也。少知名。弱冠拝騎都尉、與顧譚・張休等侍太子登講論道藝、並為賓友。…

10年以上前の訂正

「霊金内府」は剣の名前じゃなくて、宝物庫の名前です。『三輔黄図』の段落頭は三輔の施設名が置かれてるんで、ネットで通行してる説は、それを斬蛇剣の名前と誤読してるのだと思われます。https://t.co/1uIqtUdexJ— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2021年9月1…

自爆テロ

news.yahoo.co.jp 反社会的勢力の容疑者が判決を受けた時、「あんた、生涯、このこと後悔するよ」と言ったのだとか。 (公孫)賀子敬聲、代賀為太僕、父子並居公卿位。 敬聲以皇后姉子驕奢不奉法。征和中擅用北軍錢千九百萬、發覺、下獄。 是時詔捕陽陵朱安…

文帝から文帝へ

後則從行獵、槎桎拔、失鹿、帝大怒、踞胡牀拔刀、悉收督吏、將斬之。 (蘇)則稽首曰「臣聞古之聖王不以禽獸害人、今陛下方隆唐堯之化、而以獵戲多殺羣吏、愚臣以為不可。敢以死請!」 帝曰「卿、直臣也。」遂皆赦之。 (『三国志』巻十六、蘇則伝) 魏の文…

甘延寿の封邑

甘延壽字君況、北地郁郅人也。少以良家子善騎射為羽林、投石拔距絶於等倫、嘗超踰羽林亭樓、由是遷為郎。・・・(中略)・・・車騎將軍許嘉薦延壽為郎中諫大夫、使西域都護騎都尉、與副校尉陳湯共誅斬郅支單于、封義成侯。薨、諡曰壯侯。傳國至曾孫、王莽敗…

司馬法

軍禮司馬法百五十五篇。 (『漢書』巻三十、芸文志、六芸略、礼) 凡兵書五十三家、七百九十篇、圖四十三卷。省十家二百七十一篇重、入蹵𠮑一家二十五篇、出司馬法百五十五篇入禮也。 (『漢書』巻三十、芸文志、兵書略) へえ、『漢書』芸文志の分類では、…

ひとこと

漢で「都護」といえば西域都護であり、西域全体を「護」する存在なのだが、後漢末の曹操政権や蜀漢の「都護」「都護将軍」などは何を「護」する存在なのだろうか? わかるようなわからないようなモヤモヤした感じ。

時間よ、戻れ

以趙將漢王三年降、屬淮陰侯、定趙・齊・楚、以撃平城、侯、七百戸。 五 (高祖)八年十月癸丑、齊侯趙將夜元年。 (『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、深澤齊侯趙将夜) 深澤齊侯趙將夕 以趙將漢王三年降、屬淮陰侯、定趙・齊・楚、以撃平城功侯、七百戸。…

ひとこと

漢書駁議二卷。晉安北將軍劉寶撰。 (『隋書』巻三十三、経籍志二、史) この『漢書駁議』なる書の編者とされる「晋の安北将軍劉宝」って何者なんだろうか? 安北将軍ならもう少し何かの記録がありそうなものなんだが・・・。 それとも何か字の誤りでもある…

小さな疑問

漢興、仍襲秦制、置中常侍官。然亦引用士人以參其選、皆銀璫左貂、給事殿省。 及高后稱制、乃以張卿為大謁者、出入臥内、受宣詔命。 文帝時、有趙談・北宮伯子、頗見親倖。 至於孝武、亦愛李延年。帝數宴後庭、或潛游離館、故請奏機事、多以宦人主之。 至元…

安国被り

漢の孝武帝の頃に孔子の子孫の孔安国という者がいたが、晋の孝武帝の頃にも孔安国という者がいたのか・・・。どっちも太守になっとる。 紛らわしくないか?命名考えろ晋の方の安国。 漢の方の安国は経書の注に名が残る超有名人だぞ・・・。

皇族の字

ちゃんと調べてないけど、漢代って諸侯王や皇帝の子として生まれた皇子はまず確実に「字」(あざな)が伝わらないな。たぶんな。 献帝は例外というか、「生まれてから後宮にいなかったっぽい」ことや「帝位を退いた」ことが関係ありそうだ。 漢の成帝も「太…

劇県は劇県か否か

(永初元年九月)丁丑、詔曰「自今長吏被考竟未報、自非父母喪無故輒去職者、劇縣十歳・平縣五歳以上,乃得次用。」 (『後漢書』紀第五、孝安帝紀) 漢代、郡や県には統治の困難さに応じた等級があったらしく、大変な方を「劇県」「劇郡」と呼んでいたよう…

所管がえ

王脩字叔治、北海營陵人也。 (『三国志』巻十一、王修伝) 三国時代の王修の出身營陵県は北海郡であった。 王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。 (『晋書』巻八十八、孝友伝、王裒) だがその孫の王裒は城陽郡の營陵県…

河内の苟氏2

苟晞字道將、河内山陽人也。 少為司隸部從事、校尉石鑒深器之。東海王越為侍中、引為通事令史、累遷陽平太守。齊王冏輔政、晞參冏軍事、拝尚書右丞、轉左丞、廉察諸曹、八坐以下皆側目憚之。及冏誅、晞亦坐免。長沙王乂為驃騎將軍、以晞為從事中郎。惠帝征成…

河内の苟氏

左曹水衡都尉河内苟參威神。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、陽朔三年) 前漢成帝の時の水衡都尉に河内の苟参なる者がいた。 (王)翁孺生禁、字稚君。少學法律長安、為廷尉史。 本始三年、生女政君、即元后也。 禁有大志、不修廉隅、好酒色、多取傍妻、…

貴徳と帰徳

雅楽 GAGAKU|文化デジタルライブラリー 前漢の「帰徳侯」についてはいくつか記事にしてきたが、今に残る雅楽「貴徳」が子の初代「帰徳侯」の事なのだとか。 なぜ帰徳侯が題材になったのかは分からない。匈奴からの降伏者、他にいくらでもいるのだが。 ずっ…

魏の宗聖侯

昨日の褒成侯関係の話だが、前漢の褒成侯は二千戸だった。 魏の宗聖侯は百戸だった。 時代の違い(他の侯とのバランス等)があるので一概には言えないかもしれないが、魏の宗聖侯は前後の時代の孔丘先生子孫の侯よりも領土が少なかったのかもしれない。

漢代の君2

元帝即位、徴(孔)霸、以師賜爵關内侯、食邑八百戸、號襃成君、給事中、加賜黄金二百斤、第一區、徙名數于長安。霸為人謙退、不好權勢、常稱爵位泰過、何徳以堪之!上欲致霸相位、自御史大夫貢禹卒、及薛廣徳免、輒欲拜霸。霸讓位、自陳至三、上深知其至誠…

尚書令鄧馮

尚書令南陽鄧馮君侯為右扶風。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始五年) へえ、王莽時代の元始5年(平帝が死んだ年)に尚書令から右扶風になった鄧馮は南陽の人なのか。 つまり南陽の鄧氏。 「世吏二千石」だという鄧晨や、少年時代に長安で詩経を学…

辛と幸

中郎將幸成子淵為水衡都尉。 (『漢書』巻十九下、百官公卿表下、元始二年) (辛)慶忌居處恭儉、食飲被服尤節約、然性好輿馬、號為鮮明、唯是為奢。為國虎臣、遭世承平、匈奴・西域親附、敬其威信。年老卒官。 長子通為護羌校尉、中子遵函谷關都尉、少子茂…

メモ

漢の武帝の時、周王の子孫は「周子南君」という「君」にされた。 この「周子南君」は『漢書』外戚恩沢侯表では一人として「諡」が記録されていない。 その「周子南君」が「周承休侯」に格上げされてからは「諡」が贈られている事が確認されている。 「君」は…

漢代の君

公卿議更立皇后、皆心儀霍將軍女、亦未有言。上乃詔求微時故劍、大臣知指、白立許倢伃為皇后。既立、霍光以后父廣漢刑人不宜君國、歲餘乃封為昌成君。 (『漢書』巻九十七上、外戚伝上、孝宣許皇后) 漢の宣帝の皇后となった許氏の父の許広漢は、許氏が皇后…

列侯となる者

孝惠六年、樊噲卒、謚為武侯。子伉代侯。而伉母呂須亦為臨光侯、高后時用事專權、大臣盡畏之。伉代侯九歳、高后崩。大臣誅諸呂・呂須婘屬、因誅伉。 (『史記』巻九十五、樊酈滕灌列伝、樊噲) かの樊噲の妻は呂后の妹呂須であった。 息子樊伉が樊噲の舞陽侯…